大化の改新について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/21 19:22      
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大化の改新について考えてみます

 

 

・大化改新について

 

 ・7世紀の半ばに唐が高句麗を攻撃し始めた

  →そのため、東アジアで緊張感が高まると同時に、唐と高句麗の動きが

   どうなるか分からないので周りの国々は、中央集権化をすることと、

   国内を統一することが必要になってきた

 

 

 ・日本では、蘇我入鹿という人が、厩戸王の子どもである山背大兄王という人を倒して、

  権力を集中させようとした

 

 ・一方で、中大兄皇子という人は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足という人達の協力によって、

  王族を中心とした中央集権を目指そうとした

  →そこで中大兄皇子が、中央集権に対する考え方が違う蘇我蝦夷、蘇我入鹿を倒した

   =この出来事を乙巳の変という

 

 

 ・乙巳の変によって、何が起きたのか

  →・王族の軽皇子という人が位について、孝徳天皇になり、孝徳天皇が中心となった

   ・阿倍内麻呂という人を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に置いた

   ・中臣鎌足を内臣に置いた

   ・旻と高向玄理を国博士に置いた

 

    →このようなスタイルの新しい政権が誕生し、それと同時に飛鳥から難波に移り、

     645年に政治改革を行おうとした

     =この時に行おうとした政治改革のことを大化の改新と言う

 

 

 

 ・大化の改新で何を行ったのか

  →・646年に「改新の詔」を出して、豪族の田荘と部曲を廃止にすることで、

    公地公民制に移ろうとした

    ※公地公民制・・土地と人民を豪族ではなく、国がコントロールする制度のこと

   ・全国の人々や田んぼの調査を行った

   ・統一した税金の制度を作ろうとした

   ・地方の行政をコントロールする組織として、「評」という組織を各地に作った

   ・中央の行政の制度を整備した

   ・難波宮という宮が作られた

    =以上のようなことを行うことで、中央集権化を行っていった

 

  ※大化の改新の時に、中大兄皇子の力が強くなっていった

   →中大兄皇子の力によって、古人大兄王、蘇我倉山田石川麻呂、

    孝徳天皇の皇子の有間皇子が滅ぼされたということがあった

 

 

ポイント

・大化の改新についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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