太平洋戦争の始まりについて

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 18:13      
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太平洋戦争の始まりについて考えてみます

 

 

・太平洋戦争の始まりについて

 

 

 ※日独伊三国同盟を結んだことは、アメリカが日本との対立をより強めることになった

  →そのため、第2次近衛文麿内閣は日本とアメリカが戦う事を防ぐために、

   日米交渉を始めた

   ※日米交渉の前の年には、日本の野村吉三郎とアメリカのハル国務長官との間で

    交渉していた

 

 

 ・一方で、三国同盟の結びつきを強めるために、松岡洋右という外務大臣が

  ドイツとイタリアに訪問していた

  →松岡洋右は、その帰りにモスクワで日ソ中立条約という条約を結んだ

 

   ※なぜ、日ソ中立条約を結んだのか

    ・北方の平和を確保する

    ・アメリカとの関係を、日本とソ連が手を組むことで調整しようとした

 

 

 

 ・1941年6月に、ドイツが突然ソ連に侵略を始めて、独ソ戦争という戦争が始まった

  →独ソ戦争に対応するために、日本は1941年7月2日に御前会議という会議を開いた

 

   ※御前会議について

    ・御前会議とは・・外国との戦争に関する問題で、大本営政府連絡会議という会議に

             天皇が参加している場合の呼び方のこと

    ・御前会議には、参謀と軍令部のトップ、企画院のトップ、陸軍と海軍の代表、

     首相、外務大臣、大蔵大臣、内務大臣が参加した

   

    ※御前会議での内容

     →・アメリカとイギリスと戦うことを覚悟して南方に進出する

      ・戦いの情勢が有利だった場合に、ソ連と戦うこと(北進)を決めた

   

   →この会議によって、陸軍はシベリアなど極東地域にあるソ連の土地を

    占領する計画を立てたため、関東軍特種演習(関特演)という名目で、

    約70万人の兵隊を満州に集合させた

    ※しかし、南進が決まったため、ソ連と戦う計画は中止になった

 

 

 

 ・第2次近衛文麿内閣は、日米交渉を続けた

  ※しかし、当時の外務大臣だった松岡洋右は、日米交渉を打ち切って戦うこと

   も仕方ないと考えていた

   →そこで、松岡洋右を取り除くために、一度総辞職をした

    =その後すぐに、第3次近衛文麿内閣が誕生した

 

 

 ・第3次近衛文麿内閣が誕生してすぐに、前から決まっていた

  南部仏印進駐(南部のフランス領インドシナを占領すること)を行動に移すことにした

  →この動きに対してアメリカは、アメリカにある日本の資産の使用や移動を

   一時的に禁止して、日本への石油の輸出を禁止した

 

  ※海軍は戦争に積極的ではなかったが、石油の輸出が止められたときには、

   南方の石油のために戦うほうがいいのではないか、

   と考える人が出てくるようになった

 

 

 ・アメリカは、日本が南部に進出することと東亜新秩序の建設を阻止する考えを示した

  ※アメリカのこの考え方にイギリスとオランダも同調した

   

  →アメリカの考えに対して、日本はさらに不安になった

   =そのため、日本は「ABCD包囲陣」の圧迫から逃れるためには、

    戦争をするしかないと考えた

    ※ABCD包囲陣・・A=アメリカ、B=イギリス、C=中国、D=オランダの

              4つの国が行っている経済封鎖を中心とした包囲網のこと

 

 

 

 

 ・9月6日にも御前会議が行われた

  →その時に、帝国国策遂行要領というものを決定した

   ※帝国国策遂行要領の内容

    →・日米交渉の期限を10月上旬までと決めた

     ・交渉が失敗した場合は、アメリカ、イギリス、オランダに対して戦争を始める

 

 

 ・日米交渉は、中国から日本が撤退することをアメリカが要求したため、

  日本が納得いかなかった

  →そのため、日本とアメリカがお互いに納得しないまま、日米交渉が

   10月の半ばにまで食い込んでしまった

 

 

 ・上のような状況で、日米交渉をうまくまとめることを期待する近衛文麿と、

  交渉をやめて戦争を始めることを期待する、当時の陸軍大臣だった

  東条英機という人との間で対立した

  =そのため、10月16日に近衛文麿内閣は総辞職をした

 

 

 

 ・当時の内務大臣だった木戸幸一(木戸孝允の孫)という人は、

  9月6日の御前会議の決定を無効にすることを条件にして、

  東条英機を次の首相にすることを推薦した

  →この結果、首相が陸軍大臣と内務大臣の両方も一緒に担当する形で

   東条英機内閣が誕生した

 

  ※当時は、最後の元老だった西園寺公望という人が亡くなったため、

   次の首相を決める方法として、首相を経験したことがある人を中心に集めて会議を行い

   その会議で決めた人を推薦するという形だった

 

 

 

 ・東条英機内閣は、9月6日の内容を検討し直して、日米交渉をしばらくは

  続けることを決めた

  ※しかし、11月26日にアメリカ側からの提案がされた

   =この提案の内容が書かれたものを、ハル=ノートと呼んだ

 

   ※ハル=ノートの内容について

    ・中国とフランス領インドシナから、無条件で撤退すること

    ・満洲国と汪兆銘の政権を認めないこと

    ・日独伊三国同盟を無くす  など

 

  →ハル=ノートの内容は満州事変より前の状態に戻すことを要求する

   最後の通告だった

   =そのため、ハル=ノートによって日米交渉を続けることが

    ほぼ出来なくなってしまった

 

 

 

 

 ・12月1日に御前会議を開いた

  →この会議で、日米交渉を失敗と判断して、アメリカとイギリスに対して

   戦争を始めることを最終的に決めた

 

  →そこで、12月8日に、日本の陸軍がイギリス領マレー半島というところに上陸して、

   日本の海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃する、という行動を取った

 

  =この結果、日本はアメリカとイギリスに宣戦布告し、第2次世界大戦の中でも

   大きな戦争の一つだった太平洋戦争が始まった

 

   ※アメリカとの戦争が始まった後に、政府は日中戦争や太平洋戦争などを

    含めて「大東亜戦争」と名づけた

 

 

  ※日米交渉の終わりの時の様子について

   ・日米交渉の打ち切りは、真珠湾への攻撃が始まった後にずれ込んだ

    →その結果、アメリカの世論が「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)

     という言葉で一致団結して、日本と争う気持ちに火がついたと言われている

   ・日系アメリカ人が強制収容所というところに収容された

    ※しかし、ドイツ系とイタリア系のアメリカ人は、収容しなかった

     →アメリカは、強制収容所に入れた収容者に対する謝罪と補償を1988年に行った

 

 

 

ポイント

・太平洋戦争が始まるまでの流れと当時の様子について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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