東南アジアの植民地化の動きについて② -ミャンマー・フィリピン・ベトナム・清・タイ-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/14 17:09      
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東南アジアの植民地化の動きについて、ミャンマー、フィリピン、ベトナム、清、タイの

それぞれについて考えてみます

 

 

 

 

 ・ミャンマーでは、イギリスはアッサムに進出したコンバウン朝を3次にわたる

  ビルマ戦争をへてインドに併合した

  →そして、ミャンマー南部のデルタ地帯の水田稲作開発をすすめて

   世界市場に組み込んでいった

 

 

 

 

 ・フィリピンには、スペインが進出した

  

 ・スペインは、メキシコ銀をマニラに運んだ

  →そして、マニラに集まってきた中国の商船や中国人在住者を仲介した

  →そして、中国産の絹織物や陶磁器などを得てアメリカ大陸へ運ぶ太平洋ルートを確立した

 

 ・一方で、支配地では政教一致体制を取り、住民をカトリックに強制的に改宗させた

  →この時に、新しく統治組織を作ってフィリピン人をトップにした

   ※しかし、スペイン人である教区司祭が、信仰から行政まで絶大な権限をふるった

 

 ・スペインは、今までは欧米の勢力に対して鎖国政策を取ってきた

  →しかし、自由貿易を求める圧力を受けたために、1834年にマニラを正式に開港した

   =その結果、砂糖、マニラ麻、タバコなどの商品作物の生産が一気に進み、

    世界市場に組み込まれていった

    ※この時に、商人や高利貸しによる土地の集積が始まった

     →そして、プランテーション開発が進んで大土地所有制が成立した

 

 

 

 

 

 ・ベトナムには、フランスが介入した

  

 ・阮福映という人は、フランス人宣教師のピニョーが本国から連れてきたフランス義勇兵と

  タイ軍の援助で1802年に全土を統一し、阮朝を作った

 

 ・1804年に、清朝からベトナム(越南)国王に封ぜられた

  =その結果、清の制度を導入し、行政制度を整備した

 

 ・19世紀の半ばになると、フランスはカトリック教徒の迫害を理由にして

  強引に軍事介入をし始めた

  →その後、1862年にメコン川流域を奪って、領土拡大の動きを見せた

  →この動きに対して、劉永福という人が組織した黒旗軍という軍は、

   ベトナム北部に根拠を置いて抵抗した

   ※この動きを口実にフランスは北部に進出した

    =結果的に、1883年のユエ条約によって北部と中部を支配下に置いた

 

 

 

 

 

 ・一方で、清朝はベトナムへの宗主権を主張して派兵したことで、清仏戦争が起きた

  →この戦争で清は敗れた

   =その結果、1885年の天津条約でベトナムへのフランスの保護権を

    承認することになった

 

  →ベトナムの植民地化に成功したフランスは、1863年以来

   保護国としていたカンボジアとベトナムを合わせた

   =その結果、1887年にフランス領インドシナ連邦を成立させた

    ※1899年には、ラオスも編入した

 

 

 

 

 

 ・唯一植民地化の圧力を回避したのはタイだった

  →タイでは、伝統的に閉鎖的な政策が西ヨーロッパの国々に対してとられていた

 

  →19世紀になると、門戸開放の圧力が強まり、19世紀の後半になって

   政策の転換が行なわれた

 

  →王室による貿易独占が解除され、自由貿易の原則が確認された

   ※すると、次々と先進諸国と外交関係が結ばれた

    =その結果、お米の商品化が進み、デルタ地帯の開発が進んだ

 

 ・チュラコロン(ラーマ5世)という人は、イギリスとフランスとの勢力均衡策を取った

  →この政策の裏で、外国への留学や外国人専門家の導入化を進めた

   =その結果、近代化に成功し、植民地化への危機を回避した 

 

  

ポイント

・植民地化を中心に、東南アジアの動きについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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