プロイセンとオーストリアの動きについて

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投稿者:       投稿日時:2013/10/14 23:35      
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プロイセンとオーストリアの動きについて考えてみます

 

 

・プロイセンとオーストリアについて

 

 

 

 ・ドイツでは、プロイセンがオーストリアにつぐ第2の強国として、

  主権国家体制の一役を担う存在に成長した

  

 ・プロイセンは、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝を助けて王国に昇格した

  →プロイセンは、2代目の王であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世が

   財政と行政を整えて軍備を増強した

   =そして、結果的に絶対王政の基礎を作り上げたと言われている

 

 

 

 

 ・オーストリアで、マリア=テレジアという人がハプスブルク家の

  全領土を継承するということが起きた

  →すると、1740年に、フリードリヒ2世(大王)という人は、

   マリア=テレジアの全領土の継承に異議を唱えた

   =その結果、フリードリヒ2世は、資源の豊富なシュレジエンを占領した

 

  →その後、フリードリヒ2世は、自らの継承権を主張するバイエルン公や、

   フランス王などとともに、イギリスに支援されたオーストリアと戦った

   =この戦いを、オーストリア継承戦争という

    ※この戦争は、1740年~48年に行われ、シュレジエンを獲得した

 

  

 

 ・戦争の数年後に、シュレジエンの奪回を目指すマリア=テレジアは、外交政策を転換した

  →そこで、長年敵対関係にあったフランスと同盟し、ロシアを味方につけた

   ※フリードリヒがフランスと同盟を結んだことを、「外交革命」という

 

  →これだけ味方につけたため、フリードリヒが1756年にはじめた七年戦争では、

   プロイセンが苦戦した

   ※しかし、1763年に有利な和平を結んでシュレジエンを確保し、

    ヨーロッパの強国の位置についた

 

 

 

 

 ・フリードリヒは、「君主は国家第一の僕」と自称していた

  ※フリードリヒなどは、ヴォルテールなどのフランス啓蒙思想を参考にし、

   内政面で以下のようなことを行った

   →・信教の自由を認めた

    ・産業の育成を認めた

    ・司法の改革を行った

     =以上のような動きによって、国民の福祉の向上を目標にかかげた政策を展開した

 

 

 

 ・プロイセンなどでは、西ヨーロッパで改革の担い手になった市民層の成長が十分ではなかった

  →このため、君主主導で改革をすすめる体制(「上からの近代化」)がとられた

   =この体制を、啓蒙専制主義という

 

  ※フリードリヒは、啓蒙専制君主の典型とされていた

   →しかし、その統治はユンカーを支柱とする非近代的な性格の強いものだった

   →そのため、農民の農奴的地位は改善されなかった

 

 

 

 

 ・オーストリアでも、マリア=テレジアがプロイセンとの戦争に備えて、

  様々な内政の改革を行った

  →マリア=テレジアの子どものヨーゼフ2世という人は、啓蒙専制君主として、

   宗教面での寛容政策や農奴解放など、上からの近代化につとめた

   ※しかし、ヨーゼフの中央集権的な改革は、特権を守ろうとする貴族や地域社会から

    強い抵抗を受けた

    =結果的に改革は、挫折したものが多かった

 

  ※オーストリアのハプスブルク家は、チェック人の住むベーメン王国、

   マジャール人のハンガリー王国、北イタリア地方、ベルギーなどを支配していた

   =そのため、ヨーゼフの画一的な改革は民族の感情の反発を招いていた

 

 

ポイント

・プロイセンとオーストリアの様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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