<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; 領知宛行状</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e9%a0%98%e7%9f%a5%e5%ae%9b%e8%a1%8c%e7%8a%b6/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e9%a0%98%e7%9f%a5%e5%ae%9b%e8%a1%8c%e7%8a%b6/feed" />
	<item>
		<title>徳川家綱の幕府の政治について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1210</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1210#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 08:39:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[保科正之]]></category>
		<category><![CDATA[寛永の飢饉]]></category>
		<category><![CDATA[徳川光圀]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家綱]]></category>
		<category><![CDATA[手伝普請]]></category>
		<category><![CDATA[末期養子の禁止]]></category>
		<category><![CDATA[殉死の禁止]]></category>
		<category><![CDATA[牢人]]></category>
		<category><![CDATA[由井正雪の乱]]></category>
		<category><![CDATA[領知宛行状]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1210</guid>
		<description><![CDATA[４代将軍徳川家光綱の幕府の政治について考えてみます &#160; &#160; ・徳川家綱の政治について &#160; &#160; 　・１６５１年４月に、３代将軍徳川家光が死んでしまった 　　→そこで、徳川家光の子ども [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1210">徳川家綱の幕府の政治について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>４代将軍徳川家光綱の幕府の政治について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・徳川家綱の政治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６５１年４月に、３代将軍徳川家光が死んでしまった</p>
<p>　　→そこで、徳川家光の子どもの徳川家綱が４代将軍に１１歳でなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※徳川家綱が将軍になった時は幕府の仕組みが安定していて、</p>
<p>　　　　会津藩主で叔父だった保科正之という人や様々な譜代大名が</p>
<p>　　　　徳川家綱を支えてくれたので、当時の社会が安定していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→このような状況で、重要だとして考えられたのが、牢人やかぶき者への対策だった</p>
<p>　　　※牢人・・君主の家を自分から去ったり、失ったりした武士のこと</p>
<p>　　　　　　　　→牢人は、戦乱を期待していた</p>
<p>　　　　かぶき者・・社会の秩序からはずれている人達のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６５１年７月に、兵学者だった由井（比）正雪という人が乱を起こした</p>
<p>　　＝この乱のことを、由井（比）正雪の乱（または、慶安の変）という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→徳川幕府は、この乱を受けて、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　　・大名の末期養子の禁止を緩和して、牢人が増えるのを防いだ</p>
<p>　　　　　※末期養子の禁止・・跡継ぎのいない大名が死ぬ時に、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　急に相続人を願って申し出るのを禁止すること</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　→緩和によって、当時は５０歳未満の大名に</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　末期養子が認められた</p>
<p>　　　　・江戸に住む牢人とかぶき者を取り締まることを強化した</p>
<p>　　　　　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６６３年に、徳川家綱が代がかわったことによる武家諸法度を出して、</p>
<p>　　殉死の禁止を定めた</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※殉死の禁止・・王や主君が死んだ時に、家臣や部下などが後追いをして</p>
<p>　　　　　　　　　　　自発的に死ぬことを禁止すること</p>
<p>　　　　→殉死の禁止によって、主君の跡継ぎに従うことが義務になった</p>
<p>　　　　　※この義務によって、主人の家系は代々主人であり、主人に従う家系は</p>
<p>　　　　　　代々主人に従うという関係が固定した</p>
<p>　　　　　　＝そのため、下剋上ということが起こらなくなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６６４年に、全ての大名に領知宛行状というものを作ることと、幕府の領地を</p>
<p>　　検地することを行った</p>
<p>　　※領知宛行状・・主君から家臣に領知について出された文書のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→これを出すことで、将軍の権力の強さを再確認させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藩では、藩の政治を安定させることと、領内の経済を発展させることを</p>
<p>　　考えるようになった</p>
<p>　　※なぜ、上のようなことを考えるようになったのか</p>
<p>　　　→・平和な時代が続いていたので、軍役に人を回すという負担が減ったから</p>
<p>　　　　・寛永の飢饉という飢饉が起きたから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そこで、大名たちは以下のようなことを考えた</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・有力な家臣を補佐役に回して、領内の支配の仕組みを整備することで、</p>
<p>　　　　藩主の権力を高めた</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・治水工事や新田開発などを行うことで、農業の生産を高めて、</p>
<p>　　　　藩の財政を安定させようとした</p>
<p>　　　　※しかし、参勤交代や手伝普請などによって支出が増えていたため、</p>
<p>　　　　　藩の財政は不安定だった　</p>
<p>　　　　　・手伝普請・・建築や土木などの工事を手伝うこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・いくつかの藩で、藩主が儒者を呼んできて、藩の政治を全く新しいものにしようとした</p>
<p>　　　　※代表的なものに、岡山の藩主の池田光政、会津の藩主の保科正之、</p>
<p>　　　　　水戸の藩主の徳川光圀、加賀の藩主の前田綱紀などの人達がいる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　　→それぞれの藩主がどのようなことを行ったのか</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>　　　　　　・池田光政・・熊沢蕃山という人を呼んできて、藩の学校として花畑教場を、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　郷の学校として閑谷学校という施設を作った</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>　　　　　　・保科正之・・山崎闇斎という人から朱子学を勉強して、多くの本を書いた</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>　　　　　　・徳川光圀・・江戸に彰考館という施設を作り、「大日本史」という本の</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　編纂を行った</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　また、明から逃げてきた朱舜水という人に学問に関する事柄を</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　担当させた</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>　　　　　　・前田綱紀・・朱子学者の木下順庵という人を呼んできて、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　学問を発展させようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・徳川家綱の動きを押さえる</p>
<p>・藩の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1210">徳川家綱の幕府の政治について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1210/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1210" />
	</item>
	</channel>
</rss>
