徳川家綱の幕府の政治について
4代将軍徳川家光綱の幕府の政治について考えてみます
・徳川家綱の政治について
・1651年4月に、3代将軍徳川家光が死んでしまった
→そこで、徳川家光の子どもの徳川家綱が4代将軍に11歳でなった
※徳川家綱が将軍になった時は幕府の仕組みが安定していて、
会津藩主で叔父だった保科正之という人や様々な譜代大名が
徳川家綱を支えてくれたので、当時の社会が安定していた
→このような状況で、重要だとして考えられたのが、牢人やかぶき者への対策だった
※牢人・・君主の家を自分から去ったり、失ったりした武士のこと
→牢人は、戦乱を期待していた
かぶき者・・社会の秩序からはずれている人達のこと
・1651年7月に、兵学者だった由井(比)正雪という人が乱を起こした
=この乱のことを、由井(比)正雪の乱(または、慶安の変)という
→徳川幕府は、この乱を受けて、以下のようなことを行った
・大名の末期養子の禁止を緩和して、牢人が増えるのを防いだ
※末期養子の禁止・・跡継ぎのいない大名が死ぬ時に、
急に相続人を願って申し出るのを禁止すること
→緩和によって、当時は50歳未満の大名に
末期養子が認められた
・江戸に住む牢人とかぶき者を取り締まることを強化した
・1663年に、徳川家綱が代がかわったことによる武家諸法度を出して、
殉死の禁止を定めた
※殉死の禁止・・王や主君が死んだ時に、家臣や部下などが後追いをして
自発的に死ぬことを禁止すること
→殉死の禁止によって、主君の跡継ぎに従うことが義務になった
※この義務によって、主人の家系は代々主人であり、主人に従う家系は
代々主人に従うという関係が固定した
=そのため、下剋上ということが起こらなくなった
・1664年に、全ての大名に領知宛行状というものを作ることと、幕府の領地を
検地することを行った
※領知宛行状・・主君から家臣に領知について出された文書のこと
→これを出すことで、将軍の権力の強さを再確認させた
・藩では、藩の政治を安定させることと、領内の経済を発展させることを
考えるようになった
※なぜ、上のようなことを考えるようになったのか
→・平和な時代が続いていたので、軍役に人を回すという負担が減ったから
・寛永の飢饉という飢饉が起きたから
→そこで、大名たちは以下のようなことを考えた
・有力な家臣を補佐役に回して、領内の支配の仕組みを整備することで、
藩主の権力を高めた
・治水工事や新田開発などを行うことで、農業の生産を高めて、
藩の財政を安定させようとした
※しかし、参勤交代や手伝普請などによって支出が増えていたため、
藩の財政は不安定だった
・手伝普請・・建築や土木などの工事を手伝うこと
・いくつかの藩で、藩主が儒者を呼んできて、藩の政治を全く新しいものにしようとした
※代表的なものに、岡山の藩主の池田光政、会津の藩主の保科正之、
水戸の藩主の徳川光圀、加賀の藩主の前田綱紀などの人達がいる
→それぞれの藩主がどのようなことを行ったのか
・池田光政・・熊沢蕃山という人を呼んできて、藩の学校として花畑教場を、
郷の学校として閑谷学校という施設を作った
・保科正之・・山崎闇斎という人から朱子学を勉強して、多くの本を書いた
・徳川光圀・・江戸に彰考館という施設を作り、「大日本史」という本の
編纂を行った
また、明から逃げてきた朱舜水という人に学問に関する事柄を
担当させた
・前田綱紀・・朱子学者の木下順庵という人を呼んできて、
学問を発展させようとした
ポイント
・徳川家綱の動きを押さえる
・藩の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです