徳川家宣と徳川家継の幕府の政治について -正徳の政治と新井白石-
徳川家宣と徳川家継の政治について考えてみます
・徳川家宣の政治について
・徳川綱吉が亡くなった後に、6代将軍徳川家宣という人が就任した
※徳川家宣が行ったこと
・生類憐みの令を廃止した
・柳沢吉保を降ろして、新井白石という人と側用人だった間部詮房という人を任命した
→こうすることで、政治を大きく変えようとした
=このようにして変えようとした政治を、正徳の政治という
※しかし、徳川家宣が6代将軍になって約3年で死んでしまった
→そこで、7代将軍として徳川家継という人が出てきた
・徳川家継の政治について
・徳川家継が7代将軍になった時は、まだ3歳だった
→そのため、新井白石に頼って政治を行うことになった
・新井白石は、どのようなことを行ったのか
・新井白石は、将軍個人の権力よりも、将軍職の地位と権力を高めることを考えた
→そこで、新井白石は以下のようなことを行った
・徳川家継と、2歳の天皇の娘を結婚させた
・閑院宮家を作り、天皇家と強いつながりを持つようになった
※当時、宮家は3つしかなかったため、天皇の息子や娘の多くは、
出家して門跡寺院に入っていた
→そこで、徳川幕府が費用を出して、特別に閑院宮家を作った
・一目で身分や序列が分かるように、衣服の制度を変えて、
身分秩序を重視するようにした
・新井白石の朝鮮との関係について
・新井白石は、朝鮮の通信使が、徳川家宣が将軍に就任した時のお祝いを
目的に来た時に、使節への待遇について様々な変更を行った
※何を行ったのか
・使節の待遇を簡単なものにした
・朝鮮からの日本宛ての国書に、今まで「日本国大君殿下」と
書いてあったものを、「日本国王」に変えさせた
※なぜ、このようなことを行ったのか
・「大君」よりも「国王」のほうが地位としては高く
「大君」で来ていたのが嫌だったから
→しかし、8代将軍徳川吉宗からは、以前から「大君」で来ていたことを
尊重して、「大君」に戻した
→通信使が来た時に、上のようなことを要求することで、日本を代表する権力者としての
将軍の地位をはっきりさせたかったと言われている
・新井白石の財政への対応について
・新井白石は、元禄小判(金が含まれている率を下げた小判)をやめて、
元禄小判の前に使われていて金が含まれている率が元禄小判よりも高かった慶長小判
という小判と同じだけ金を含んだ小判を作った
=この小判を、正徳小判という
→正徳小判を作ることで、物価の上昇を抑えようとした
※しかし、慶長小判から元禄小判に変わっただけでも面倒だったものを、
また小判を変えて正徳小判にしたため、社会は混乱してしまったと言われている
・長崎貿易の時に、金と銀が日本から大量に出て行くということが起きた
→そこで、大量の金と銀の流失を防ぐために、1715年に
海舶互市新例(長崎新令、正徳新令とも)を作って、
貿易の額を制限する、という方針をとった
※海舶互市新例によって、どのように貿易額が制限されたのか
・清の船は、年間30隻、銀に換算して6000貫に制限した
・オランダの船は、年間2隻、銀に換算して3000貫に制限された
ポイント
・徳川家宣の政治を押さえる
・徳川家継と新井白石の政治を押さえる
このあたりが今回のポイントです