江戸時代の交通について -概要・陸上交通と海上交通-
江戸時代の交通について考えてみます
・江戸時代の交通について
・江戸時代に、江戸、京都、大阪の3つの都(三都)を中心にして、
各地の城下町をつなぐ道が作られていった
※その中でも、五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光道中、奥州道中を
まとめた呼び方)は、江戸を起点にした重要な道路だった
→そのため、五街道は幕府が直接管理することになり、17世紀の半ばから
道中奉行という役職が管理した
※道路に関しては、脇街道(脇往還)と呼ばれる主要な道路が全国に敷かれていた
→代表的な脇街道に、伊勢街道、長崎街道、中国街道、北国街道などがある
※五街道や脇街道には、宿駅という施設が多く設置された
・宿駅・・旅人が宿泊したり、荷物の運搬のための人や馬を
中継したりする施設のこと
→東海道には53宿、中山道には67宿が設置された
※五街道や脇街道には、一里塚、渡船場、関所などの施設が設置された
→関所があった代表的な場所に、東海道の箱根や新居、甲州街道の小仏、
奥州道中と日光道中の守山などがある
=関所では手形を見せることが必要で、関東の関所では「入鉄砲に出女」
という言葉があり、厳しく取り締まった
※「入鉄砲に出女」・・関東に鉄砲が入ることと、参勤交代のために
関東にいる大名の妻子が関東から出て行くことを
特に厳しく取り締まることを表現した言葉のこと
※宿駅は、城下町の中心にあった町にも設置された
→それ以外の宿駅は、小都市(宿場町)ということで、
地域の流通センターとしての役割を担った
・陸上の交通について
・陸上の交通については、幕府や大名などの通行が最優先となった
→そのため、幕府や大名の交通のために使われる人や馬は、
無料か一般人の半額の金額で使えた
=このように、交通のために使われる人や馬を伝馬役という
※伝馬役について
・伝馬役は、宿駅の町人や百姓、近くの村の百姓が負担していた
・伝馬役は、五街道については一定数を常備させることがルールになった
→・東海道-100人と100匹 ・中山道-50人と50匹
・日光街道、奥州街道、甲州街道-25人と25匹
・伝馬役を補うために人や馬を提供する村のことを助郷という
・助郷に関する役職を助郷役という
・宿駅には問屋場という施設が設置された
→問屋場では、問屋、年寄、帳付などの宿役人と呼ばれる人達が、
伝馬役の手配や継飛脚を行った
※継飛脚について
・継飛脚とは・・宿駅ごとに人馬を変えて荷物を運ぶ、幕府のための飛脚のこと
・継飛脚に続いて、大名飛脚という、大名のための飛脚を設置した
・その後、町人のための飛脚として町飛脚が設置された
・さらにその後、飛脚問屋という書状や小さな荷物を扱う飛脚が出てきた
・宿駅については、大名が利用する本陣、脇本陣という施設が、一般の旅行者のために
旅籠屋という施設が設置された
・海上の交通について
※なぜ海上の交通が整備されたのか・・大量のモノを安い値段で運ぶためには、
海上のほうが都合が良いから
・海上交通では、幕府や藩の年貢を輸送するという目的を中心に、
大阪と江戸を起点にして整備されていった
・内陸部では、河川での舟の交通が、物資の流通の中心を担った
※角倉了以という人は、富士川と高瀬川を切り開いて、新しい水路を作った
・大阪と江戸の間には、菱垣廻船と樽廻船という2つの定期船が運航され、
大阪から木綿や酒などを江戸に運んだ
※菱垣廻船と樽廻船について
・菱垣廻船という船が17世紀に出てきた
・樽廻船という船が18世紀の前半に出てきた
・樽廻船は酒の運搬が専門だったが、樽廻船のほうが荷物の積み下ろしが早く、
酒以外の商品も上積みの荷物という扱いで安く運送してくれた
→そのため、菱垣廻船と樽廻船の間で常に争っていた
=結果的に菱垣廻船が衰退し、樽廻船が優位になっていった
※18世紀の末に、日本海の北前船、尾張の内海船などの廻船業という業種が
発達していった
・17世紀の後半に、江戸の商人だった河村瑞賢という人が、
東廻り海運と西廻り海運という2つの海運を整備した
=この整備によって、全国レベルでの海上交通の交通網が完成したと言われている
ポイント
・江戸時代の交通の概要を押さえる
・陸上交通について押さえる
・海上交通について押さえる
このあたりが今回のポイントです