徳川綱吉の幕府の政治について -元禄時代の始まり-
5代将軍徳川綱吉の幕府の政治について考えてみます
・徳川綱吉の政治について
・17世紀後半に、5代将軍徳川綱吉が政権についた
=この時から、元禄時代という時代が始まった
※徳川綱吉の政治は、大老の堀田正俊という人が補佐をした
→しかし、堀田正俊が暗殺されるという出来事が起きた
=そのため、その後は側用人という役職だった柳沢吉保という人が
徳川綱吉の補佐をした
・1683年に、代がわりの武家諸法度が出された
→その武家諸法度の第一条が、「弓馬の道」から、
「文武忠孝を励し、礼義を正すべきこと」に変えられた
※「文武忠孝を励し、礼義を正すべきこと」とは、どういうことか・・
・武士に、忠(主人に尽くすこと)、孝(親を大切にすること)、
礼義による秩序を重要視しようとした
=この考え方を文治主義という
→文治主義は儒教が根底にあり、徳川綱吉は儒教を重視した
※徳川綱吉は儒教を重視した結果、どのようなことを行ったのか
・木下順庵という人から勉強して、湯島聖堂という建物を作った
→その時に、林鳳岡(信篤)という人を、大学頭(湯島聖堂の長)に任命した
・林羅山という人が作った孔子廟と私塾を湯島に移して、学問所として整備させた
=この学問所を、聖堂学問所という
※徳川綱吉は礼儀を重視した結果、どのようなことを行ったのか
→秩序を重視しようとして、以下のようなことを行った
・天皇や朝廷に対する政策を変えた
・朝廷の儀式の中でいくつかを復活させた
・禁裏御料(天皇の土地)を増やした
・1687年に大嘗祭を、1694年に賀茂葵祭を復活させた
→朝廷の儀式を復活させる中で、赤穂事件という出来事が起きた
※赤穂事件とは・・
・1701年に、赤穂藩の藩主だった浅野長矩という人が、
旗本で朝廷に関係する儀礼を担当した高家の吉良義央という人を傷つけた
・その次の年に、浅野家の遺臣(昔からの家来)が吉良義央を倒した
=この出来事を赤穂事件という
・徳川綱吉は、仏教も重視した
→そこで、1685年から約20年間、生類憐みの令という法律を作った
※生類憐みの令・・生きているもの全てを殺してはいけないという法律のこと
→この法律によって、庶民は迷惑だったものの、
野犬が暴れ回るという状況は無くなった
→さらに、服忌令という法律を作った
※服忌令・・自分の身近な人が亡くなった時に、忌引きをする日数を決めた法律のこと
※服忌令によって、何が起きたのか
・死を嫌う風潮が出てきた
→これによって、死んだ牛馬を処理するかわたは、より差別意識が強くなって
差別されるようになった
・戦国時代から続いた、武力で相手を倒すことでのし上がっていく価値観が
否定されることになった
・徳川綱吉の時は、幕府の財政が転換期を迎えたと言われている
※転換期を迎えた理由
・金銀の産出量が減り、鉱山収入が減った
・1657年に明暦の大火という出来事が起こり、江戸城と市街地を復興させる費用と、
今後の寺社の造営費が増えた
※明暦の大火・・江戸城と江戸の市街地の大半が燃えてしまった大火事のこと
→これらの出来事によって、徳川幕府の財政は破綻してしまった
※破綻した時に、どのようなことを行ったのか
・当時、勘定吟味役(後の勘定奉行)だった荻原重秀という人が、
収入を増やす方針として、貨幣を作りなおすことを提案し、徳川綱吉が提案を認めた
→そこで幕府は、金を減らして、質の低い小判を大量に作ることで多くの収入を得た
※しかし、貨幣の価値を下げたことで、物価が上昇してしまい、
人々が苦しい生活を強いられるようになった
・さらに財政を圧迫する理由として、1707年に富士山の大噴火が起きた
→富士山の噴火によって、駿河や相模などの国は砂が降り、大きな被害をもたらした
※幕府は復興のために、全国に「諸国高役(国役)金」というものを、
100石につき2両の割合での徴収を行った
ポイント
・徳川綱吉の政治を押さえる
・徳川綱吉の時の財政を押さえる
このあたりが今回のポイントです