元禄文化の文学と儒学について
元禄文化の文学と儒学について考えてみます
・元禄文化について
※元禄時代に、幕府の政治が安定して経済が成長してくると、武士や町人だけではなく、
庶民でも様々な文化が出てきた
=この時期の文化を、元禄文化という
・元禄文化の特徴
・人間と社会を現実主義や実証主義でとらえる
・町人の中から、現世を「浮き世」と見ることで現実を描こうとする文学が出てきた
・儒学や古典研究、自然科学の学問などが重視された
・元禄時代の文学について
※元禄時代の文学は、上方という地方の町人文芸が中心だった
→代表的な人に、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門などがいる
・松尾芭蕉について
・松尾芭蕉は伊賀の出身だった
・蕉風(正風)俳諧という、さびやかるみや静けさなどで表現される俳諧を作った
・代表的な作品に「奥の細道」という作品がある
・井原西鶴について
・井原西鶴は大坂の町人だった
・井原西鶴は、西山宗因という人から勉強して、談林俳諧という俳諧で注目され、
浮世草子という小説を描いた
・代表的な作品に「好色一代男」などの好色物、「武道伝来記」などの武家物、
「日本永代蔵」や「世間胸算用」などの町人物などがある
・近松門左衛門について
・近松門左衛門は、武士の出身だった
・近松門左衛門は、義理と人情で悩む人の様子を、人形浄瑠璃や歌舞伎の
脚本によって描いた
・近松門左衛門の作品は、人形遣いの辰松八郎兵衛などが演じ、
竹本義太夫などが語って、民衆に共感された
※竹本義太夫の語りは、義太夫節と呼ばれ、独立した音曲に成長した
・代表的な作品に「曽根崎心中」などの世話物、
「国性(姓)爺合戦」などの時代物などがある
・当時の歌舞伎について
・歌舞伎が当時の民衆の演劇として成長していった
・江戸や上方には、芝居小屋が設置された
・歌舞伎では、以下のような有名な役者が出た
→江戸で、いさましい演技(荒事)によって評判になった
初代市川団十郎という人が出た
→上方で、恋愛劇(和事)を得意とした坂田藤十郎という人が出た
→上方で、女形の代表として芳沢あやめという人が出た
・当時の儒学について
・儒学は、幕藩体制の社会での人々の役割について解説したため、盛んになった
※中でも朱子学は、大義名分論(身分を重視する考え方)をベースにして、
身分秩序や礼儀を重視した
→そのため、朱子学が封建社会を維持する目的で、教学として幕府や藩で重視された
・朱子学は戦国時代に土佐で始まったとされている
※朱子学の一派として、谷時中という人に受け継がれた南学(海南学派)
という学派があった
→南学の系統から、山崎闇斎や野中兼山という人達が出てきた
※山崎闇斎は、垂加神道という神道を説いた
→垂加神道とは・・今までの伊勢神道や唯一神道、吉川惟足という人の吉川神道などを
土台にした神道のこと
→垂加神道は、神の道と天皇の徳が一体だと考えた
=その考え方が、崎門学という学問での尊王論の根拠になったと言われている
・中江藤樹や、その弟子の熊沢蕃山などは、明の王陽明という人が始めた陽明学を勉強した
→陽明学は、知行合一という考え方の立場から現実を批判するなど、
革新的な考え方だった
=そのため、陽明学は幕府から批判された
※熊沢蕃山は「大学或問」という本などで、武士土着論という考え方を提唱して、
幕府を批判した
・山鹿素行や伊藤仁斎などの人達が、古学派という学問を始めた
※古学派・・孔子や孟子の古典に戻ろうとする考え方のこと
※山鹿素行は、朱子学を批判して「聖教要録」を、日本を「中朝」と呼ぶ考え方から
「中朝事実」などの本を書いた
※伊藤仁斎とその子どもの伊東東涯の親子は、京都の堀川という場所で
私塾の古義堂という塾を開いた
・伊藤仁斎の古学を受け継いだ荻生徂徠という人が、経世論という考え方を提唱し、
江戸に私塾の蘐園塾を開いた
※経世論・・社会を治める具体的な方法に対する考え方のこと
※荻生徂徠は、都市の拡大を抑えて、武士の土着が必要だという考え方を示した
→そのため荻生徂徠は、柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗などに用いられ、
享保の改革の時に顧問の役割を果たした
※荻生徂徠の弟子だった太宰春台という人が経世論を発展させ、武士も商業をして、
専売制度で利益を出すべきだと考えた
ポイント
・元禄文化の概要を押さえる
・元禄時代の文学を押さえる
・当時の儒学とそれぞれの思想を押さえる
このあたりが今回のポイントです