陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について
陽明学と、古学・古義学・古文辞学の古学派について考えます
・陽明学について
→日本の陽明学を生み出したのは、中江藤樹という人だった
・中江藤樹について
・人を愛し敬うこと(=孝)が道徳の根本だと考えた
→ただし、親子だけでなく、主従関係や夫婦・友人などの様々な人間関係に
孝が当てはまると考えた
※孝は、全てに当てはまる考え方だが、時と場所と身分に合わせて
使わないといけないと考えた
・人が生まれながらに持っている正しい判断力(=良知)が重要として、
自分の良知を発揮させるべきと考えた
※中江藤樹は、良知を孝の最も基礎の部分だと考えた
・「翁問答」という本を書いた
・古学について
→日本で古学を提唱したのは、山鹿素行という人だった
・山鹿素行について
・儒学の立場から、当時存在していた武士道を批判し、士道を提唱した
※武士道:武士は名前を重視すること、恥を知ること、
君主に対してわが身を犠牲にして委ねることなどを提唱した
士道:武士は礼儀を重視すること、威厳を持って、人格を立派にし、
欲のために心を動かさないことなどを提唱した
※なぜ、武士道はダメで、士道が良いと考えたのか
→山鹿素行は、「武士は、道徳については指導者でなければいけない」と考えていて、
武士道では、道徳の指導者になれないと思ったから
・朱子学の考えの一つに含まれている「天理」を、抽象的だとして批判した
→抽象的だと実行できないと考え、道理を日常生活の実用的な範囲に限定して、
欲望などを容認した
→天理のような考え方が生まれるのは、孔子や周公の考え方を様々な形で
解釈していくうちにどんどん抽象的な方向に向かってしまったのが原因だから、
孔子や周公の後の時代に生まれた考え方を無視して、
直接孔子や周公の考え方を学ぶべきだと考えた
=そのため、このような考え方を古学と言い、山鹿素行が古学を提唱した
※山鹿素行は「聖教要録」という本を書き、その中で朱子学を批判したため、
島流しの刑となった
※江戸時代中期に、武士道について、山本常朝という人が、「葉隠」という本で
「武士道といふは死ぬことと見付けたり」と考えた
・山鹿素行の古学はその後、古義学と古文辞学に分かれた
・古義学について
→古義学を生み出したのは、伊藤仁斎という人だった
※古義学とは・・古学の中でも、「論語」や「孟子」などを
緻密に読み解く勉強の方法を提唱した学問のこと
・伊藤仁斎について
・全ての物事は生まれ働き動き続けるので、止まることがない
そのため、私達の生きている世界は、変化し続ける「一大活物」というふうにとらえた
※人間関係も同じで、頻繁に会う身近な人との交流以外に、人間関係は無いと考えた
=自分と全く関係ない人は、自分と交流関係があるとは言えない
→そこで伊藤仁斎は、上のような考え方から、
「仁は愛のみ」「われよく人を愛すれば、人またわれを愛す」と考えた
※仁とは・・人と人の関わりにおいて自分と他人がとがお互いに親しみ、
お互いに愛することで、伊藤仁斎は、仁を行為の中で理想だと考えた
※しかし、仁はかすむ程度で弱いため、他人の苦しみを直接感じることは
できないと考えた
→そこで、仁を全ての場面で広く、深く実現されるために・・
・他人に自分をつくして、全くウソをつかないこと(=忠信)が大切だと考えた
・「論語」や「孟子」などを学び、他人にとってふさわしい行動(=義)を
知るべきだと考えた
・伊藤仁斎は、仁を達成することで誠に近づけると考えた
※誠とは・・人と人との関わる時に、飾ったりすることなく純粋な心で対応できること
・「童子問」や「語孟字義」という本を書いた
・古文辞学について
→古文辞学を生み出したのは荻生徂徠という人だった
※古文辞学とは・・「六教」を学ぼうとした時に、「六教」は古文辞で書かれているから、
古文辞を学んで、「六教」を学ぼうとする学問のこと
・荻生徂徠について
・荻生徂徠は、「天下を安んずるの道(安天下の道)」を考えた
→この考え方から、儒学の重要な部分は、人々の生活が安定し、
人々が安心して生きられることを自覚すること=経世済民だと考えた
・荻生徂徠がここで言う「道」とは、自然などの道理ではなく、
政治を行う人のために聖人(儒教で理想とされた人達のこと)によって
作られた礼楽刑政のことを指している
=礼楽刑政は、尭や舜(2人とも聖人)などによって作られた
儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度や習慣、風習だと考えた
・荻生徂徠は、上のような考え方から、
→人々の生活が安定するとは、「人々の意見や才能を育てて発揮させること」であり、
礼楽刑政はその手段として使うべきだと考えた
・礼楽刑政は、「論語」以前の書物の六経に古文辞(古語)で記されているから、
礼楽刑政を知るためには、古文辞を学ばなければいけないと考えた
→このような考え方から、荻生徂徠は古文辞学を生み出し、古文辞学を重視した
※六経-五経に「楽経」を加えたもののこと
・「弁道」という本を書いた
※山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて、古学派と言う
・寛政異学の禁について
・寛政異学の禁とは・・聖堂学問所で朱子学以外の儒学の講義をすることを
禁止した出来事のこと
・具体的な流れ
・江戸幕府は、聖堂学問所(後の昌平坂学問所)を設置するなど、
儒学を使っての武士の教育を行ったが、寛政の改革の時に寛政異学の禁が出されて、
儒学の勢いが弱まった
※一方で、藩校や私塾などが多く設けられ、儒学の考え方は少しずつ浸透していった
※この出来事に関しての注意点
・なぜ、朱子学以外の儒学を禁止したのか
→朱子学は、儒学の中でも、身分制度の意識が強く、
幕府が身分制度を根付かせたかったからだと言われている
・なぜ、寛政異学の禁が出されたのに、藩校や私塾で儒学は教えていたのか
→寛政異学の禁が出されたのは、聖堂学問所だけで、それ以外には出されていないから
・では、なぜ全国的に禁止にしないのか
→当時の幕藩体制は、幕府と地方で政策が違い、幕府が寛政異学の禁について
地方に口出しをしなかったからだと言われている
ポイント
・中江藤樹が陽明学を生み出し、孝を重視した上で、良知を孝の根本に置いた
・山鹿素行が古学を生み出し、儒学の立場から武士道を批判した上で士道を主張した
・山鹿素行は、朱子学の天理を抽象的と批判し、道理を日常生活の範囲に限定すると同時に、
欲望や情念を容認した
・山鹿素行は、後世を無視して、孔子や周公の考え方を学ぶべきだとして、古学を提唱した
・山本常朝が「葉隠」を書いた
・伊藤仁斎が古義学を生み出し、仁を提唱した
・伊藤仁斎は、仁のために忠信と義を重視し、仁を達成することで誠に近づけると考えた
・荻生徂徠は、古文辞学を生み出し、安天下の道を考え、礼楽刑政を提唱した
・古義学と古文辞学をまとめて古学と言う
・山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて古学派と言う
・儒学と朱子学に関連して、江戸時代に寛政異学の禁が出された