化政文化の時の教育と儒学について
化政文化の時の教育と儒学について考えてみます
・当時の儒学と教育について
・当時、幕府は儒学によって武士を教育することを考えていた
※しかし、18世紀の後半に古学派、折衷学派、考証学派などの学問の派閥が出てきた
→この状況で幕府は、寛政異学の禁という法律を作り、武士の教育のために
朱子学を重視した
※寛政の改革の時に、官立の昌平坂学問所という施設を作り、
そこで朱子学を教えていた
・様々な藩で、藩の武士の教育のために藩学(藩校)という学校を作った
※藩学は、最初は儒学だけを行っていたが、後半は洋学や国学も
行うようになっていった
→この時に、年齢や学力に合わせた教育を行うという、学級制が出てきた
・城下町から遠い土地に、藩の援助を受けて藩の武士や庶民を教育する施設を作った
=その施設のことを、郷学(郷校)という
※郷学の代表的なものに、岡山の藩主だった池田光政という人が建てた
閑谷学校というものがある
・民間レベルでも武士や学者などが私塾を開かれて、儒学を始めとした様々な
学問の講義が行われた
※代表的な私塾に、大坂の懐徳堂という私塾がある
→懐徳堂について
・18世紀の初めに、大坂の町人達がお金を出し合って作られた
・寛政の改革の時に、中井竹山という人を学長にして、
朱子学や陽明学などの講義を行った
・懐徳堂から、富永仲基や山片蟠桃という、変わった学者が出てきた
※富永仲基と山片蟠桃は、合理主義という立場に立った
・その他の教育機関として、廣瀬淡窓という人の咸宜園や、
吉田松陰という人の松下村塾などがある
・寺小屋という、庶民の教育機関が大量に出てきた
→寺子屋では、読み、書き、そろばんなどの日常で使える教育と、
道徳教育などを行った
※寺子屋には、女性の講師もいて、女性の教育も行われた
→その時に、貝原益軒という人の作品をもとにして作られた「女大学」という
女性の心得を説明するものもあった
・18世紀の初めに、石田梅岩という人が心学という学問を作った
→石田梅岩は、以下のようなことを行った
・儒教に仏教や神道を混ぜて、日常生活での倫理を解説した
・「都鄙問答」という本を書き、商業と商人の大切さと、
徳目(倹約や正直などの徳の項目)を説明した
→心学は、弟子の手島堵庵や中沢道二という人達によって、全国に広められた
→庶民の教育は、出版が盛んになったことが後押しして、都市から農村にまで広がった
=そのため、読みや書きなどの初等教育が、世界でもトップレベルになったと言われている
ポイント
・当時の儒学教育の様子を押さえる
・当時の民間教育の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです