化政文化の美術と生活について
化政文化の美術と生活について考えてみます
・化政文化の美術について
・化政文化は、浮世絵が流行した
→どのような浮世絵があったのか
・18世紀の半ばに鈴木春信という人が、錦絵という多色刷の浮世絵の版画を作った
・寛政期に喜多川歌麿という人が、多くの美人画を描いた
・東洲斎写楽という人が、役者絵や相撲絵などを描いた
→喜多川歌麿や東洲斎写楽は、大首絵という手法を使って描くことがあった
・天保のころに、葛飾北斎や歌川広重などによって錦絵の風景画が流行った
→葛飾北斎は「富嶽三十六景」を、歌川広重は「東海道五十三次」を書いた
※これらの浮世絵は、モネやゴッホなどを代表するヨーロッパの印象派という
画派にも影響を与えた
・丸山応挙という人が作った丸山派という画派は、写生を重視した
→この時に、遠近法を取り入れた作品が多かった
・丸山派から、呉春(松村月渓)という人が出てきて、四条派という画派を作った
→温かみのある風景が特徴だと言われている
・明や清の影響を受けた画風というのが出てきた
=その画風を、文人画という
※文人画について
・文人画とは・・専門の画家ではない文人や学者が描いた絵のこと
・18世紀に池大雅と蕪村が「十便十宜図」という合作を作ったことで、
文人画が有名になった
・文人画は、田能村竹田や谷文晁、渡辺崋山などの人達が出てきたことによって
全盛期になった
・蘭学が出てきたことで、西洋の絵画の技術が日本に入ってきた
→西洋の絵画の技術は、油絵の具などと一緒に長崎を経由して伝えられた
=そのため、日本人も油絵の作品を作るようになった
※代表的な人に、平賀源内、亜欧堂田善、司馬江漢などがいる
※中でも司馬江漢は、平賀源内から勉強して銅版画という版画を作った
・化政文化の時の生活について
※化政文化の時は、江戸を中心にして都市の文化が花開いたと言われている
・芝居小屋や見世物小屋という小屋が出てきた
・寄席という、落語や曲芸などを演じる施設が出てきた
・銭湯や髪結床(現代の床屋)が、庶民の交流の場所になった
・寺社が、修理や経営のための費用を得るために、縁日、開帳、富突(富くじ)などを行った
※開帳・・寺の仏などを人々に見せること
→開帳は、江戸や京都などに出向いて開帳を行う出開帳というものも行われた
富突・・現代でいうくじのようなもの
・湯治(温泉に入ること)や物見遊山(見物したり遊び歩いたりすること)などの
庶民の旅行が流行った
※菅江真澄という人は、40年間東北を旅行して、
その様子を「菅江真澄遊覧記」ということで残した
・伊勢神宮や善光寺などへの寺社参詣が盛んに行われた
※中でも、多くの人々が伊勢神宮に参詣することを、御蔭参りという
・聖地や霊場を回る巡礼が行われた
※代表的なものに、四国八十八ヵ所などがある
・日待、月待、庚申講などの集まりが行われた
※日待・・神に酒などを備えて一晩こもり、次の日の朝の日の出を待つ行事のこと
月待・・月が出ることを拝む行事のこと
庚申講・・干支で庚申にあたる日の夜に、眠らないでいるという集まりのこと
・その他の行事に以下のようなものがあった
→五節句、盂蘭盆会、彼岸絵、万歳、猿回し、座頭の歌 など
※万歳、猿回し、座頭の歌などは、人々の楽しみだったと言われている
ポイント
・化政文化の美術について押さえる
・化政文化の時の生活について押さえる
このあたりが今回のポイントです