化政文化の時の国学と洋学について
化政文化の時の国学と洋学について考えてみます
・国学について
※国学とは・・「古事記」や「日本書紀」など日本に昔からある文学を研究する学問のこと
・荷田春満や賀茂真淵などの人達は、日本の古代の考え方を研究した
※その時に、洋学、儒教や仏教などの外国から来た考え方も批判した
・本居宣長という人が「古事記伝」という本を書き、日本に昔からある精神に戻ることが
重要だと考えた
・平田篤胤という人が復古神道という神道を作り、儒教や仏教を批判した
※復古神道・・日本に昔からある純粋な信仰を重視する考え方のこと
・塙保己一という人が和学講談所という施設を作り、「群書類従」という
シリーズの本を作った
・洋学について
※西洋の学問の研究は、日本が鎖国している状況だったので、研究自体が難しかった
→そのような状況の中で、西川如見や新井白石などの人達が
洋学の先駆けになったと言われている
※新井白石の洋学への功績について
・1708年に、イタリア人の宣教師のシドッチという人が
キリスト教を普及させる目的で日本に来た
・シドッチは屋久島で捕まえられ、江戸小石川のキリシタン屋敷に閉じ込められて
5年後に死んでしまった
→その時に、新井白石はシドッチからいろいろ聞いて、
「采覧異言」と「西洋紀聞」を書いた
・8代将軍徳川吉宗が、漢訳洋書の輸入制限を緩めて、青木昆陽や野呂元丈などに
オランダ語を勉強させた
→そのため、洋学が蘭学として発達していった
・蘭学がどのような活躍を見せたのか
・蘭学を一番最初に取り入れたのが、医学だった
→蘭学の成果として、前野良沢や杉田玄白などが書いた「解体新書」という本
が誕生したことが挙げられる
※医学は、元や明の医学を重視する考え方から、漢の時代の医学に戻ろうとする
考え方が出てきた
=この考え方を、古医方という
→中でも、山脇東洋という人は、日本最初の解剖図録である
「蔵志」という本を書いた
・この後に、大槻玄沢や宇田川玄随という人達が出てきて、
蘭学がさらに研究されるようになった
→大槻玄沢は、「蘭学階梯」という蘭学の入門書を書き、
江戸に芝蘭堂という施設を作って、多くの生徒を持った
→宇田川玄随は、「西説内科撰要」という本を書いた
→大槻玄沢の門人だった稲村三伯という人が、「ハルマ和解」という辞書を書いた
・平賀源内という人が出てきて、以下のようなことを行った
→・長崎で勉強した知識を使って物理学の研究を行った
・本草学を勉強した
・摩擦発電機(エレキテル)の実験をして、寒暖計などを作った
・戯曲や滑稽本などを書いた
・蘭学書で西洋の画法を勉強して、秋田に銅山の開発のために行った時に、
西洋の画法を教えた など
・幕府は、18世紀の半ばに天文方という役職を作り、天文や測地、洋書の翻訳などを行わせた
・天文の分野で、天文方の高橋至時という人に寛政暦という暦を作らせた
・測地の分野で、伊能忠敬という人に全国の沿岸を測らせて、
「大日本沿海輿地全図」という地図を作らせた
・翻訳の分野で、蛮書和解御用という御用職を作り、蛮書和解御用に洋書を翻訳させた
※蛮書和解御用は、天文方の高橋景保という人の意見で作られ、
後に蕃書調所という名前になった
・オランダ語の通訳者の志筑忠雄という人が「暦象新書」という本を書いた
→この本の中で、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介した
・民間レベルでも蘭学の研究が行われた
→19世紀の前半に、2つの塾が作られ、多くの人材を育てた
・オランダ商館医だったドイツ人のシーボルトという人が、
長崎の郊外に鳴滝塾という塾を作った
※シーボルトは、「日本」という本を書いた
・緒方洪庵という人が大坂に適塾(適々斎塾)という塾を作った
※洋学の研究は、シーボルト事件や蛮社の獄などによって、規制を受けた
→そのため、幕府の外交政策の批判や政治に直接影響を与えることが無かった
→洋学の研究は、医学や地理学などの実学としての性格が強くなっていった
※シーボルト事件とは・・
・1828年にシーボルトが帰国する時に、持ち出しが禁止されている日本地図を
持っていたために、国外追放の処分を受けた
・地図を渡した高橋景保を始めとした関係者も処罰された
=この出来事を、シーボルト事件という
※当時、佐久間象山という幕末に開国論を展開した人が、
「東洋道徳、西洋芸術」という考えを表明した
ポイント
・国学について押さえる
・洋学について押さえる
・蘭学について押さえる
このあたりが今回のポイントです