化政文化の時の国学と洋学について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/25 04:54      
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化政文化の時の国学と洋学について考えてみます

 

 

・国学について

 

 ※国学とは・・「古事記」や「日本書紀」など日本に昔からある文学を研究する学問のこと

 

 

 ・荷田春満や賀茂真淵などの人達は、日本の古代の考え方を研究した

  ※その時に、洋学、儒教や仏教などの外国から来た考え方も批判した

 

 ・本居宣長という人が「古事記伝」という本を書き、日本に昔からある精神に戻ることが

  重要だと考えた

  

 ・平田篤胤という人が復古神道という神道を作り、儒教や仏教を批判した

  ※復古神道・・日本に昔からある純粋な信仰を重視する考え方のこと

 

 ・塙保己一という人が和学講談所という施設を作り、「群書類従」という

  シリーズの本を作った

 

 

 

 

 

・洋学について

 

 ※西洋の学問の研究は、日本が鎖国している状況だったので、研究自体が難しかった

  →そのような状況の中で、西川如見や新井白石などの人達が

   洋学の先駆けになったと言われている

 

  ※新井白石の洋学への功績について

   ・1708年に、イタリア人の宣教師のシドッチという人が

    キリスト教を普及させる目的で日本に来た

   ・シドッチは屋久島で捕まえられ、江戸小石川のキリシタン屋敷に閉じ込められて

    5年後に死んでしまった

    →その時に、新井白石はシドッチからいろいろ聞いて、

     「采覧異言」と「西洋紀聞」を書いた

 

 

 ・8代将軍徳川吉宗が、漢訳洋書の輸入制限を緩めて、青木昆陽や野呂元丈などに

  オランダ語を勉強させた

  →そのため、洋学が蘭学として発達していった

 

 

 

 ・蘭学がどのような活躍を見せたのか

 

  ・蘭学を一番最初に取り入れたのが、医学だった

   →蘭学の成果として、前野良沢や杉田玄白などが書いた「解体新書」という本

    が誕生したことが挙げられる

 

  ※医学は、元や明の医学を重視する考え方から、漢の時代の医学に戻ろうとする

   考え方が出てきた

   =この考え方を、古医方という

    →中でも、山脇東洋という人は、日本最初の解剖図録である

     「蔵志」という本を書いた

 

  

  ・この後に、大槻玄沢や宇田川玄随という人達が出てきて、

   蘭学がさらに研究されるようになった

   →大槻玄沢は、「蘭学階梯」という蘭学の入門書を書き、

    江戸に芝蘭堂という施設を作って、多くの生徒を持った

   →宇田川玄随は、「西説内科撰要」という本を書いた

   →大槻玄沢の門人だった稲村三伯という人が、「ハルマ和解」という辞書を書いた

 

 

  ・平賀源内という人が出てきて、以下のようなことを行った

   →・長崎で勉強した知識を使って物理学の研究を行った

    ・本草学を勉強した

    ・摩擦発電機(エレキテル)の実験をして、寒暖計などを作った

    ・戯曲や滑稽本などを書いた

    ・蘭学書で西洋の画法を勉強して、秋田に銅山の開発のために行った時に、

     西洋の画法を教えた など

 

 

 

 ・幕府は、18世紀の半ばに天文方という役職を作り、天文や測地、洋書の翻訳などを行わせた

 

  ・天文の分野で、天文方の高橋至時という人に寛政暦という暦を作らせた

 

  ・測地の分野で、伊能忠敬という人に全国の沿岸を測らせて、

   「大日本沿海輿地全図」という地図を作らせた

 

  ・翻訳の分野で、蛮書和解御用という御用職を作り、蛮書和解御用に洋書を翻訳させた

   ※蛮書和解御用は、天文方の高橋景保という人の意見で作られ、

    後に蕃書調所という名前になった

 

  ・オランダ語の通訳者の志筑忠雄という人が「暦象新書」という本を書いた

   →この本の中で、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介した

 

 

  ・民間レベルでも蘭学の研究が行われた

   →19世紀の前半に、2つの塾が作られ、多くの人材を育てた

    ・オランダ商館医だったドイツ人のシーボルトという人が、

     長崎の郊外に鳴滝塾という塾を作った

      ※シーボルトは、「日本」という本を書いた

    ・緒方洪庵という人が大坂に適塾(適々斎塾)という塾を作った

  

   ※洋学の研究は、シーボルト事件や蛮社の獄などによって、規制を受けた

    →そのため、幕府の外交政策の批判や政治に直接影響を与えることが無かった

    →洋学の研究は、医学や地理学などの実学としての性格が強くなっていった

 

   ※シーボルト事件とは・・

    ・1828年にシーボルトが帰国する時に、持ち出しが禁止されている日本地図を

     持っていたために、国外追放の処分を受けた

    ・地図を渡した高橋景保を始めとした関係者も処罰された

     =この出来事を、シーボルト事件という

 

   ※当時、佐久間象山という幕末に開国論を展開した人が、

    「東洋道徳、西洋芸術」という考えを表明した

 

 

 

ポイント

・国学について押さえる

・洋学について押さえる

・蘭学について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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