江戸時代の一揆と打ちこわしについて
当時の一揆と打ちこわしについて考えてみます
・当時の状況について
・当時の百姓は村請制の制度の下で、年貢や様々な雑税などの重い負担に耐える状況だった
※しかし、幕府や藩の支配が原因で百姓の暮らしや生産が苦しくなってしまったと
分かったことがあった
→その時は、村を単位にして広い範囲で集まって、百姓が要求を通すために
直接的な行動を取った
=この行動を、百姓一揆という
・どのような百姓一揆があったのか
・17世紀の初めは、江戸幕府に抵抗する土豪を交えた武力による動きや、
村レベルでの逃散が起きた
=この当時はまだ中世の一揆の名残があったと言われている
※・土豪・・兵農分離の時に村にとどまった有力な武士階級の人達のこと
・逃散・・農民が自分の耕作を辞めて、逃げること
・17世紀後半から、代表越訴型一揆が増えた
※代表越訴型一揆・・村の代表者が百姓達の要求をまとめて領主に直接訴える一揆のこと
→代表越訴型一揆で代表的な人に、下総の佐倉惣五郎、上野の磔茂左衛門などがいる
・17世紀末の時に、惣百姓一揆(村民全員で動く一揆)という一揆が起こるようになった
※村などではなく、藩の領全部で起こる一揆は全藩一揆という
→全藩一揆の代表的なものに、1686年の信濃松本藩の嘉助騒動、
1738年の陸奥磐城平藩の元文一揆などがある
→一揆に参加した百姓は、年貢を増やしたり新しく追加したりすることの停止、
専売制の撤廃などを要求した
※中には、藩の政策に協力する商人や村の役人の家を打ちこわすなどの
行動をする人もいた
・このような一揆の後、どのようなことが起きたのか
・幕府や藩は、一揆の要求を一部で認めることもあったが、大体は武力を使って
一揆を抑えつけた
※特に、一揆の指導者は厳重に罰せられた
・上のような厳しい弾圧をされているにも関わらず、百姓一揆は増えていった
→特に、凶作や飢饉の時には様々な場所で同時に一揆が起きた
・1732年に、天候不順と同時に、西日本一帯でいなごやうんかが大量に発生して
稲を食べつくしたため、大凶作になり、全国レベルで飢饉になってしまった
=この飢饉を享保の飢饉という
→享保の飢饉によって、人々の暮らしに大きなダメージを受けた
・江戸では、享保の飢饉があった次の年の1733年に、米価の急激な上昇の原因を
力のある米問屋が作ったと考えた人が出てきた
→そのため、米問屋が打ちこわしを受けてしまった
・さらに、1782年に冷害によって飢饉が始まった
→次の年の1783年に、浅間山が大噴火をしてしまったため、
数年間は飢饉が続くという状況になり結果的に、
東北地方を中心として多くの餓死者が出てしまった
=この飢饉を天明の飢饉という
→天明の飢饉によって、全国で多くの百姓一揆が起きて、
都市で多くの打ちこわしが起きた
ポイント
・当時の状況を一揆の種類について押さえる
・一揆の後の状況を押さえる
このあたりが今回のポイントです