田沼意次の時代の政治について -徳川家重と徳川家治-
田沼意次の時代の政治について考えてみます
・田沼時代について
※8代将軍徳川吉宗の後に、9代将軍徳川家重の時代になり、
その後10代将軍徳川家治の時代になった
→徳川家治の時代の時代で、1772年に側用人から老中になった田沼意次という人が
権力を握った
=田沼意次が活躍したこの時代を、田沼時代という
・田沼意次は何を行ったのか
・田沼意次は、幕府の財政の再建のために、民間の経済活動を活発にして、
そこでの収益の一部を幕府の財政にあてようとして、
→そこで、田沼意次は以下のように様々なことを行った
・都市や農村にいた商人や職人の仲間を株仲間として認めて行った
※その時に、幕府の専売制のもとで、銅座、真鍮座、朝鮮人参座などが作られた
・運上や冥加などの営業税を増やしていった
・量が定められた計数銀貨を作らせることで、金に一本化する貨幣制度にしようとした
※当時の代表的な計数銀貨に、南鐐二朱銀という銀貨がある
=南鐐とは質の高い銀のことだったが、金2朱と同じ価値として通っていた
・江戸や大坂の商人の力を使って、印旛沼や手賀沼の干拓工事を行うなどして、
新田開発を積極的に行った
※しかし、完成間近に利根川で大洪水が起きたため、完成しなかった
・仙台藩の医師だった工藤平助という人の意見を取り入れて、
最上徳内などを蝦夷地に派遣した
→その時に、蝦夷地の開発や、ロシア人との貿易の可能性の調査を行わせた
・長崎貿易の方針を変えて、銅や俵物を輸出して、金や銀を輸入しようとした
・田沼意次の政策によって、どのような変化があったのか
・田沼意次は、商人を使って幕府の財政を大胆に改善しようとしていた
→そのため、田沼意次の政策に刺激を受けて、民間の学問、文化、芸術などが
様々な形で発展したと言われている
・一方で、幕府の役人の中で、賄賂やコネによる人事や配置が見られるようになってしまった
=この時、武士本来の文化や風潮をダメにしてしまう結果になったとして
批判が強まったと言われている
・天明の飢饉が始まって、百姓一揆や打ちこわしが頻発してきた
→その状況の中、1784年に田沼意次の子どもで若年寄だった田沼意知という人が
江戸城の城内で殺される、という出来事が起きた
=この出来事によって、田沼意次の勢力が衰えてしまった
※田沼意次は、1786年に10代将軍徳川家治が亡くなった後すぐに老中をクビになり、
様々な政策が中止になってしまった
※田沼意知を殺したのは、旗本だった佐野政言という人で、
佐野政言は人々から「世直し大明神」と褒められた
ポイント
・田沼時代の概要と、田沼意次の行動を押さえる
・田沼意次の政策による社会の変化を押さえる
このあたりが今回のポイントです