田沼意次の時代の政治について -徳川家重と徳川家治-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/24 19:57      
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田沼意次の時代の政治について考えてみます

 

 

・田沼時代について

 

 ※8代将軍徳川吉宗の後に、9代将軍徳川家重の時代になり、

  その後10代将軍徳川家治の時代になった

  →徳川家治の時代の時代で、1772年に側用人から老中になった田沼意次という人が

   権力を握った

   =田沼意次が活躍したこの時代を、田沼時代という

 

 

 

 

・田沼意次は何を行ったのか

 

 

 ・田沼意次は、幕府の財政の再建のために、民間の経済活動を活発にして、

  そこでの収益の一部を幕府の財政にあてようとして、

 

 →そこで、田沼意次は以下のように様々なことを行った

 

 

  ・都市や農村にいた商人や職人の仲間を株仲間として認めて行った

   ※その時に、幕府の専売制のもとで、銅座、真鍮座、朝鮮人参座などが作られた

 

  ・運上や冥加などの営業税を増やしていった

 

  ・量が定められた計数銀貨を作らせることで、金に一本化する貨幣制度にしようとした

   ※当時の代表的な計数銀貨に、南鐐二朱銀という銀貨がある

    =南鐐とは質の高い銀のことだったが、金2朱と同じ価値として通っていた

 

  ・江戸や大坂の商人の力を使って、印旛沼や手賀沼の干拓工事を行うなどして、

   新田開発を積極的に行った

   ※しかし、完成間近に利根川で大洪水が起きたため、完成しなかった

 

  ・仙台藩の医師だった工藤平助という人の意見を取り入れて、

   最上徳内などを蝦夷地に派遣した

   →その時に、蝦夷地の開発や、ロシア人との貿易の可能性の調査を行わせた

 

  ・長崎貿易の方針を変えて、銅や俵物を輸出して、金や銀を輸入しようとした

 

  

 

 

・田沼意次の政策によって、どのような変化があったのか

 

 

 ・田沼意次は、商人を使って幕府の財政を大胆に改善しようとしていた

  →そのため、田沼意次の政策に刺激を受けて、民間の学問、文化、芸術などが

   様々な形で発展したと言われている

 

 

 ・一方で、幕府の役人の中で、賄賂やコネによる人事や配置が見られるようになってしまった

  =この時、武士本来の文化や風潮をダメにしてしまう結果になったとして

   批判が強まったと言われている

 

 

 ・天明の飢饉が始まって、百姓一揆や打ちこわしが頻発してきた

  →その状況の中、1784年に田沼意次の子どもで若年寄だった田沼意知という人が

   江戸城の城内で殺される、という出来事が起きた

   =この出来事によって、田沼意次の勢力が衰えてしまった

    

   ※田沼意次は、1786年に10代将軍徳川家治が亡くなった後すぐに老中をクビになり、

    様々な政策が中止になってしまった

 

   ※田沼意知を殺したのは、旗本だった佐野政言という人で、

    佐野政言は人々から「世直し大明神」と褒められた

 

 

 

ポイント

・田沼時代の概要と、田沼意次の行動を押さえる

・田沼意次の政策による社会の変化を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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