徳川家斉の政治について -文化・文政の時代と大塩の乱-
徳川家斉の政治について、文化・文政の時代と大塩の乱を中心に考えてみます
・文化・文政時代の動きについて
・11代将軍徳川家斉は、松平定信が老中をクビになった後に、文化・文政時代を中心に
将軍として活躍した
→1837年に12代将軍徳川家慶に将軍職を渡した後も、
徳川家斉は大御所として権力を握り続けた
=このような政治のスタイルを、大御所政治という
・文化・文政時代の大御所政治について
・文化時代のときは、寛政の改革を引き継いで、質素や倹約ということを提唱してきた
・文政時代のときは、質素や倹約という考え方をやめて、
品質の低い貨幣を大量に作るということを行った
→この行動によって、以下のようなことが起きた
・物価の上昇が起きた
・幕府の財政が上向きになった
・将軍や大奥の生活が華やかなものになった
・商人が活発に経済活動をするようになった
・都市を中心にして庶民の文化が出てきた
・文政時代のときに、豪農や地主が力をつけてくるということが起きた
・一方で、土地を失ってしまった百姓というのも多く発生して、
荒れた地域というのが出てきた
=そのため、江戸を中心とした関東の農村では、無宿人や博徒という人達が出てきて
治安が悪くなってきた
→そこで、幕府は、1805年に関東取締出役という役職を作り、
この役職の人達に犯罪者の取り締まりを行わせた
※関東取締出役は、関東の代官の下にいる役人の中から選ばれた
→最初は8人選ばれ、2人1組になって関八州(関東の8カ国)を回って、
逮捕や取り締まりを行った
・1827年に寄場組合という組合を作らせて、協同して地域の治安維持や
取り締まりを行わせた
→寄場組合を作ることで、農村の秩序や風紀を維持しようとする目的があった
※寄場組合・・幕領、寺社領、私領という領主の違いに関係なく、
近くの村どうしを組み合わせて作った組合のこと
・大塩の乱について
・天明の飢饉という飢饉以降の、寛政期、文化期、文政期は天候が安定していて、
農業の生産も安定していた
※しかし、1832~33年は、収穫が例年の半分以下という凶作で、
全国レベルで米が不足するという事態になり、飢饉となってしまった
=この飢饉のことを、天保の飢饉という
→天保の飢饉によって、農村や都市では困った人達が大量に出てきたため、
百姓一揆や打ちこわしが大量に増えた
※しかし、幕府や藩は、天保の飢饉と百姓一揆や打ちこわしに対して、
適切な対策ができなかった
※1836年は、特に飢饉が厳しい状況になってしまった
→そのため、もともと米不足だった甲斐国郡内地方や三河国加茂郡などで
激しい一揆が起きた
=甲斐国で起きた一揆を郡内騒動、三河国で起きた一揆を加茂一揆という
※この2つの一揆は、両方とも幕領で起きて、幕府への影響が大きかった
といわれている
・大坂でも飢饉が起き、餓死者が大量に出た
※この時に、2つのことが起きた
・お米が少なく、お米の値段が高かったので、お金のある商人がお米を買い占めて、
すごく高い値段で売った
・大坂町奉行は、困っている人々を助けるわけではなく、お米が無いのにも関わらず、
大坂のお米を江戸に回していた
→この状況をみた大坂町奉行で陽明学者だった大塩平八郎という人が、
1837年に貧民を救済するために、自分の門下生や民衆などを動かして、
武力で現状を打開しようとしたが、半日で鎮圧されてしまった
=この出来事を大塩の乱という
※大塩平八郎は、自宅で洗心洞という塾を開いた
※大塩の乱は、なぜ重要な出来事と考えられているのか
→大坂という幕府の大きな直轄都市で、幕府の役人だった武士が幕府に反抗して、
幕府や藩に衝撃を与えたから
・大塩の乱は、全国に波及したと言われている
→例-・国学者の生田万という人が大塩平八郎の弟子だという口実で越後柏崎の陣屋を襲った
=この出来事を、生田万の乱という
・大塩平八郎に共感したり、心を動かされたりした人達が様々な場所で
百姓一揆を起こした
※江戸でも米不足が深刻だった
→そこで、幕府は救い小屋という小屋を作り、お米やお金を一時的に
援助することで、打ちこわしなどを未然に防いだ
ポイント
・文化・文政時代の様子を押さえる
・大塩の乱を中心とした当時の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです