天保の改革と経済の変化について
天保の改革について考えてみます
・天保の改革について
・幕府は、幕府の財政と支配の仕組みを崩す可能性のある国内と国外の要素に
対応することを考えた
→そこで、1841年に大御所で11代将軍徳川家斉が亡くなった後に、
12代将軍徳川家慶のもとで、老中の水野忠邦という人を中心にして
幕府の権力を強化しようとした
=その時に行った改革を、天保の改革という
・天保の改革の内容について
・徹底的な倹約令を出した
→この当時の倹約令は非常に厳しいもので、以下のようなことを行った
・将軍や大奥も含めて、高価なお菓子や料理などのぜいたく品や華やかな衣装の禁止
・庶民の風俗の取り締まりの徹底
・江戸の三座(3つの歌舞伎の劇場)を浅草に移動させて、
役者が町を歩くときに編笠をかぶることの義務化
・人情本作家の為永春水などを処罰した
・江戸の人別改め(人口調査のこと)を徹底的に強化して、今後の対策を建てようとした
→その結果、人返しの法という法律を作り、天保の飢饉でダメになった農村を
復活させることになった
※人返しの法・・百姓の出稼ぎを禁止して、江戸に来た貧民を
強制的に自分の故郷に帰ってもらう法律のこと
※人返しの法の時に、無宿者や浪人なども江戸から追い出された
→そのため、江戸の周りの農村は治安が悪くなったと言われている
・物価の上昇を抑えようとした
→水野忠邦は物価上昇の原因を、株仲間が商品の流通を独占して
値段を高く設定しているからだと考えた
=そこで、水野忠邦は株仲間の解散を強制的に行った
※株仲間を解散させることで、商人達が自由に取り引きをして
物価が下がることを期待した
※しかし、物価の上昇の本当の原因は、市場に入ってくる商品が
少なかったことであり、株仲間が原因ではなかった
→株仲間の解散によって、商品が一層市場に入ってこなくなったため
さらに物価は上昇した
=そのため、1851年に株仲間をもう一度作ることが許された
・物価の上昇によって、旗本や御家人などの生活も苦しくなった
→そのため、幕府は棄捐令を出したり、札差に低金利の貸し出しを行う事を
命令したりした
→以上のような厳しい統制と苦しい経済の状況が重なってしまったため、
人々はどんどん不満が高まっていった
・幕府は、相模の湾岸の防備を担当していた川越藩の財政を援助しようとした
→そこで幕府は、川越藩、庄内藩、長岡藩のトップを入れ替えるという命令を出した
=この命令を、三方領知替えという
※川越藩→庄内藩、庄内藩→長岡藩、長岡藩→川越藩という移動を
しようとしたが、それぞれの土地の人々の反対によって、
実際には行われなかった
※三方領知替えが出来なかった背景には何があるのか
→幕府の権力に対して、藩の権力が自立してきたことを
示していると言われている
→上のような状況だったので、水野忠邦は幕府の権力を強化する目的で、
1843年に上知令という法律を作った
※上知令・・江戸や大坂の周りの土地を直轄地にして、
財政の安定と外国に対する防備の強化を狙った法律のこと
※上知令は、譜代大名や旗本に反対されて実際には行わなかった
→そのため、水野忠邦は退くことになってしまった
=以上のような改革の失敗は、当時の幕府の権力が弱まっていたことを
示していたと言われている
・当時の経済の変化について
・天保のころに、農業から年貢を取って幕藩体制を維持する
という構造が厳しくなってきた
※北関東の常陸と下総という2つの国は、1721年と比べて、
1846年に人口が約30%減少した
→人口の減少は、根本的に人手が必要な農業では致命的になり、
農業を辞める農民が増えると同時に田畑がダメになる結果となった
※逆に、周防と薩摩という2つの国は、人口が約60%増え、
農業での生産力も高まっている
・19世紀に入った時に、問屋制家内工業が発達した
※一部の地主や問屋は家に工場を作り、農業を辞めた賃金労働者を集めて、
手工業での生産を行うようになった
=この生産スタイルのことを、マニュファクチュア(工場制手工業)という
→上のような変化は、本百姓の年貢が支えるという幕藩体制が崩れる可能性があり、
変化に対応する必要が出てきた
=そこで、二宮尊徳(二宮金次郎)の報徳仕法という、農村と農地の復活させる
考え方が重視された
※しかし、農業をやめて賃金労働に移った人が多かったため、報徳仕法の考え方だと
幕藩体制が崩れて資本主義に移ることは止められなかった
→一方で、藩営専売制や藩営工場の設立などを行って、
資本主義を推奨する動きもあった
ポイント
・天保の改革の内容を押さえる
・当時の経済の変化を押さえる
このあたりが今回のポイントです