寛政の改革について -松平定信の政治-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/24 20:04      
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寛政の改革について考えてみます

 

 

・寛政の改革までの流れについて

 

 

 ・田沼意次がクビになった次の年だった1787年に、江戸や大坂など、

  大きな都市で大量の打ちこわしが起きた

  =この打ちこわしを、天明の打ちこわしという

   ※この時の打ちこわしの中でも、江戸の打ちこわしは幕府に衝撃が走るほど

    すごいものだったと言われている

 

  →上のような時に、11代将軍徳川家斉の補佐役として、

   白河の藩主だった松平定信という人が老中になった

 

   ※松平定信は、田安宗武の子どもで、8代将軍徳川吉宗の孫だった

    また、松平定信は引退後に、「花月草紙」という随筆や、

   「宇下人言」という自伝などを書いた

 

 

 ・松平定信は、徳川吉宗の政治を理想として幕府の政治を行っていった

  →そこで、田沼時代の政策を変えること、飢饉で危なくなった財政基盤の復旧、

   武士の風潮の整備、幕府の権力の復活などを行っていこうと考えた

   =このように、松平定信による政治の改革を、寛政の改革という

 

 

 

 

 

・寛政の改革の内容について

 

 

 ・飢饉でボロボロになった村を復活させるために、以下の2つのことを行った

  ・人口減少が激しい陸奥や北関東などで、百姓が他の国に出稼ぎに行くことを禁止した

  ・荒れた田畑を復活させるために、全国レベルで国のお金を貸し付けることを行った

 

 ・再び飢饉が来た場合を考えて、各地で社倉や義倉と呼ばれる倉庫を作らせて、

  お米などの穀物を蓄えさせた

  =この制度を囲米という

 

 

 ・都市への政策として江戸では、両替商を中心とした豪商が幕府に呼ばれた

  =このような人達を勘定書御用達と言い、10人で構成され、

   この10人の力を使って改革を行おうとした

 

 

 ・物価や米価を引き下げた

 

 

 

 ・都市でまともな職業に就いていない人に資金を提供して、その人達を農村に帰らせた

  =この法律を、旧里帰農令という

 

 

 ・治安対策の一つとして、石川島に人足寄場という施設を作り、宿がない浮浪人を

  強制的に人足寄場に入れ、技術を身につけさせて、職業を持たせようとした

 

 

 ・それぞれの町に、町の運営費の節約を命令させ、節約した分の7割を積み立てさせた

  =この積み立てを七分積金という

   →七分積金については、新しく作った江戸町会所という施設が管理した

 

 

  →上のようにすることで、お米やお金を蓄えて、飢饉や災害などで

   生活が困難になった貧民を助ける体制を作った

 

 

 ・大名や旗本に節約を求め、金銭面で苦しむ大名や旗本を助けるために

  棄捐令という法律を作った 

  →その時に、大名や旗本が札差から借りたお金については帳消しにして、

   札差が大名や旗本に貸したお金については、返ってこないということで諦めてもらった

   ※札差・・江戸にいた金融系の商人のこと

 

 

 

 ・松平定信が朱子学を推奨したため、1790年に湯島聖堂の学問所で、

  朱子学以外の講義や研究を禁止した

  =このことを、寛政異学の禁という

   ※湯島聖堂は1797年に官立になり、昌平坂学問所に名前が変わった

 

 

 ・儒学の講義の担当者として、柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉を任命した

  =柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉の三人を「寛政の三博士」という

   ※岡田寒泉は後に代官になり、古賀精里という人が次に任命された

 

 

 

 ・民間に対しては、出版統制令という法律を作って、政治への批判や風刺などを禁止させたり、

  風俗についての考え方を新しくしたりした

 

   ※出版統制令によって、どのようなことが起きたのか

    

    ・林子平という人が書いた「三国通覧図説」や「海国兵談」という本が、

     幕府を批判しているとして抑えつけた

 

    ・黄表紙(風刺の強い絵物語)や洒落本(遊んでいる女性やお客の発言や行動を、

     会話を元に書いたもの)が風俗を乱すということで出版を禁止して、

     出版元を処罰した

     =黄表紙作家の恋川春町、洒落本作家の山東京伝、出版元の蔦屋重三郎などが

      抑えつけられた

 

 

 

 

 

・寛政の改革によって、社会はどうなったのか

 

 

 ・幕府の政治を引き締めて、幕府の権力を高めていくかと思われたが、

  統制や節約の厳しさが原因で人々が反発してしまうことがあった

 

 

 ・朝廷で問題が発生し、尊号一件という出来事が起きた

 

  ※尊号一件について

   ・1789年に、朝廷が光格天皇の実の父である閑院宮典仁親王という人に、

    太政天皇の尊号を贈りたいということについて幕府に同意を求めた

    →これに対して、幕府の松田定信が拒否した

   ・そこで、武家伝奏などの公家側は、もう一度尊号を贈ることについて

    幕府の許可を求めた

    →これに対して、松平定信は「本来は武家伝奏は幕府側に立つべきだ」

     という考え方によって、公家を処分した

     =この一連の事件を、尊号一件という

 

  →尊号一件によって、幕府と朝廷との仲が悪くなってしまった

 

  →この事件の対処の方法について、松平定信と11代将軍徳川家斉が対立したため、

   松田定信が約6年で老中をクビになってしまった

 

  →この動きによって、幕末に傾き始めたと言われている

 

 

 

 ・様々な藩では、田畑がダメになったり、年貢の収入が減ったりしたことによって、

  幕府と同じように財政危機を迎えていた

  →そこで藩は、寛政期あたりから藩のトップが自分で指揮を取り、

   法律を徹底したり、領内での倹約や統制を強化したりして、

   財政難を抜け出すことで藩の権力を復興させようとした

   =この一連の流れを、藩政改革という

 

  →藩政改革で具体的なものに、特産物の生産の推奨、藩の専売制度の強化、

   藩校の設立による人材の育成などがある

   

  →藩政改革で有名になった人に、秋田藩の佐竹義和、米沢藩の上杉治憲、

   熊本藩の細川重賢などの人がいる

 

 

 

ポイント

・寛政の改革までの流れについて押さえる

・寛政の改革の内容について押さえる

・寛政の改革のその後と尊号一件について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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