享保の改革について
享保の改革について考えてみます
・享保の改革までの流れと、享保の改革とはなにかについて
・17世紀に、三都、城下町、湾岸の都市の裕福な商人の中に、大名にも
貸付を行うことで、藩の経済をコントロールする人が出てきた
=このように大名に貸付を行う人を大名貸という
・様々な村で貨幣経済が浸透してきた
→そのため、農村家内工業や商品作物の生産などが広がった
=それによって、富が都市だけでなく農村でも蓄積されるようになってきた
・上のような状況の中で、1716年に7代将軍徳川家継が8歳で亡くなった
=そのため、家康から続いてきた宗家(本家)が途絶えた
→そこで、三家の一つで紀伊の藩主だった徳川吉宗という人が8代将軍になった
→徳川吉宗は、29年間将軍を担当し、徳川家康のような時代を戻すことを目標にして
幕府の政治の改革を行おうとした
=この時の改革を享保の改革という
・享保の改革の具体的な内容について
・徳川吉宗は、徳川綱吉の時から始まった側用人を使った側近政治をやめた
→その代わりに、譜代大名を重視することを考えて、
旗本の大岡忠相や宿駅の名主の田中丘隅などを使った
※田中丘隅は、「民間省要」という地方書を書いた
※旗本を幕府で使う時は、大番頭が5000石、
大目付・町奉行・勘定奉行が3000石などの役職による
基準(役高)を定め、基準を下回る人が就任する時に、
役職についている間は足りない石高を補うようにした
=この制度を、足高の制という
→また、荻生徂徠や室鳩巣と呼ばれる儒学者を
侍講(天皇などに学問を教える人のこと)として使った
・徳川吉宗は、財政の再建と江戸の都市への政策の2つを重視した
・徳川吉宗の財政の再建の政策について
・1719年に、相対済し令という法律を作った
※相対済し令・・金銀の貸し借り(金公事)に関する争いについて、
幕府が裁判で処理するのではなく、金銀の貸し借りを行った
当事者の間で解決させる法律のこと
・倹約令という法律を作って、支出を減らしていった
・上げ米という制度を実施する代わりに、参勤交代の制度の期間を半減させた
※上げ米・・臨時で、大名から石高1万石につき100石を回収する制度のこと
・幕府の領の代官の不正を徹底的に摘発すると同時に、定免法という法律を広げていった
※定免法・・お米がどれだけ獲れたかに関係なく、一定の率の年貢を納める法律のこと
・西日本の幕府の領で綿作などの商品作物に注目して、畑からの年貢の増収も行った
・新田開発を行うことで、お米を増やすことを推奨した
※幕府は、新田開発に関する高札を立てると同時に、新田検地を行ったものの、
耕地はあまり拡大しなかった
→このような政策を取ったため、徳川吉宗は「米公方」と呼ばれた
=徳川吉宗は、さらに収入を増やすために、お米の値段を上昇させて、
大坂の堂島にある米市場を公認した
・徳川吉宗は、様々な新しい産業を推奨した
※幕府は、青木昆陽という人を採用して、甘藷(サツマイモ)を普及させた
・漢訳洋書(漢文に訳された西洋の書物)の輸入の制限を弱めるなどを行って、
実学を重視した
※幕府は、青木昆陽や野呂元丈という人たちに蘭語(オランダ語)を習わせて、
蘭学を活発にさせようとした
・徳川吉宗の江戸の都市への政策について
・江戸の都市政策は、町奉行という役職だった大岡忠相という人が
中心になって進められた
・当時の江戸では、火事が何度もあった
→そこで、火事について様々なルールを作った
・広小路(道路を広くすること)にした
・火除地という防火地帯を作った
・今までは定火消という火消を中心とした消火制度を強化することを考えた
→そのため、町方独自の町火消という火消を組織させた
※江戸の町方にある町を「いろは」47組に編成して、
町人足役での組織的な消防制度を始めたが、すぐに無くなり、
鳶人足という消防の組織に変わってしまった
・評定所に目安箱という箱を設置して、庶民の意見を聞くようにした
→目安箱の成果の一つに、貧民を対象とした医療施設である小石川養生所という施設を
作ったことがある
・徳川吉宗の政権の末期について
・末期に、今までの幕府の法令や裁判の判例をまとめた
=そのようにしてまとめたものを、御触書集成という
・公事方御定書という法律集を作って、法律を基準にした政治を行った
・商人や職人の仲間を公認していった
・徳川吉宗の次男だった徳川宗武に田安家という家系を、
四男だった徳川宗尹に一橋家という家系を作らせた
※この後、9代将軍徳川家重の次男だった徳川重好が清水家という家系を作った
=田安家、一橋家、清水家という3つの家系をまとめて、三卿という
ポイント
・享保の改革までの流れについて押さえる
・享保の改革の内容について押さえる
・享保の改革での財政の再建について押さえる
・享保の改革での江戸の都市への政策について押さえる
・徳川吉宗の政権の末期について押さえる
このあたりが今回のポイントです