トルコ革命とイスラームの国々の動きについて
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トルコ革命とイスラームの国々の動きについて考えてみます
・トルコ革命について
・オスマン帝国(トルコ)は第一次世界大戦に参戦して負けた
→そして、セーヴル条約によって、支配下にある様々な民族の分離と独立、
国土の大幅な縮小が行なわれた
=これに抗議かつ弱い政府の批判をして、
ムスタファ=ケマル(のちのケマル=アタテュルク)が
トルコ大国民議会を組織して立ち上がった
・ムスタファ=ケマルという人は、以下のようなことを行った
→・1922年にギリシアと戦って、イズミルを回復させ、スルタン制を廃止した
・1924年にカリフ制を廃止した
・1923年に連合国との間にローザンヌ条約を結んだ
※ローザンヌ条約で以下のようなことが決められた
・新しい国境を定めた
・治外法権を廃止した
・関税自主権の回復に成功した
・1923年に、アンカラを首都としてトルコ共和国を作った
→さらにムスタファ=ケマルは、大統領になって以下のようなことを行った
・1924年に共和国憲法を発布した
・政教分離を行った
・太陽暦を採用した
・女性参政権を実施した
・アラビア文字に代わってローマ字を採用した
→しかし政治面では、ケマルが組織した共和人民党による一党独裁が
1945年まで続いた
・エジプトとアフガニスタンについて
※エジプトは、1914年からイギリスの保護国になっていた
・エジプトでは、第一次大戦後にワフド党という政党を中心に独立運動が活発に行われた
→そして、1922年にイギリスが保護権を放棄したことに伴って、
エジプト王国が成立した
※しかしイギリスは、スエズ運河の支配は保ち、様々な特権はイギリスが維持した
=そのため、イギリスに対するエジプト人の抗議が続いた
・1936年にエジプトは、イギリスとの同盟条約によって、自分の地位を改善した
※しかし、イギリスは運河地帯の兵力駐屯権を手放さなかった
※アフガニスタンもイギリスの保護国だった
→1919年にイギリスの勢力を排除することで、アフガニスタンは独立した
・イランについて
※カージャール朝のイランは、第一次大戦中、中立を宣言しつつイギリスやロシアの
介入を受けていた
→戦後は、自主権を回復した
・その後は、レザー=ハーンという人がクーデタによって実権を握った
→そして、1925年にカージャール朝を廃してパフレヴィー朝を開いた
※この時に、自らシャー(国王)を称した
・レザー=ハーンは、トルコを見習って国内の近代化を目指した
→そして、1935年に国名をペルシアからイランと改めた
※ただし、国内の石油利権は、イギリスの手に残っていた
・アラビア半島について
※アラビア半島では、戦後にイギリスの影響力が大きくなった
・イブン=サウードという人が、ワッハーブ王国の再興を目指していた
→そこでイブン=サウードは、イギリスの援助を得て独立し、
アラビア半島の統一を目指した
・イブン=サウードは、アラブ独立運動の指導者であったヒジャーズ王国の
フセイン(フサイン)という人を破って、ヒジャーズ=ネジド王国を作った
=その結果、半島の大部分を統一して、1932年にサウジアラビア王国を作った
・イラク、トランスヨルダ、シリアについて
・イラクは、1932年に独立した
・トランスヨルダは、1946年にヨルダン王国として独立した
・シリアは、最初に1941年にレバノンが分離して独立を宣言し、
1946年にシリアが独立した
・パレスチナ地方について
・パレスチナ地方では、第一次大戦中に、イギリスが1915年に
フセイン・マクマホン協定によってアラブ人にトルコからの独立を約束した
・一方で、1917年のバルフォア宣言によって、シオニズムを援助する姿勢を示した
※シオニズム・・ユダヤ人のパレスチナ復帰運動のこと
→上のような2つの動きで、両方から協力を得ようとした
・戦後、パレスチナ地方はイギリスの委任統治領になった
→そのため、アラブとユダヤの両方の民族がそれぞれの主権を主張して衝突した
=その結果、現在まで続く深い対立が始まった
ポイント
・オスマン帝国についておさえる
・エジプトとアフガニスタンについておさえる
・イランについておさえる
・アラビア半島についておさえる
・イラク、トランスヨルダ、シリアについておさえる
・パレスチナ地方についておさえる
このあたりが今回のポイントです