<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; カール＝マルテル</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%ef%bc%9d%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%ab/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%ef%bc%9d%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%ab/feed" />
	<item>
		<title>ローマ＝カトリック教会の流れについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/831</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/831#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 11 Oct 2013 14:10:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[中世ヨーロッパ史]]></category>
		<category><![CDATA[カール＝マルテル]]></category>
		<category><![CDATA[コンスタンティノープル教会]]></category>
		<category><![CDATA[ピピン]]></category>
		<category><![CDATA[フランク王国]]></category>
		<category><![CDATA[ランゴバルド王国]]></category>
		<category><![CDATA[レオ3世]]></category>
		<category><![CDATA[ローマ教会]]></category>
		<category><![CDATA[ローマ＝カトリック教会]]></category>
		<category><![CDATA[五本山]]></category>
		<category><![CDATA[聖像禁止令]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=831</guid>
		<description><![CDATA[ローマ＝カトリック教会の流れについて考えてみます &#160; &#160; ・ローマ＝カトリック教会の流れについて &#160; &#160; 　※フランク王国と協同して西ヨーロッパ世界の形成に貢献したのが、 　　ロー [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/831">ローマ＝カトリック教会の流れについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>ローマ＝カトリック教会の流れについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ローマ＝カトリック教会の流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※フランク王国と協同して西ヨーロッパ世界の形成に貢献したのが、</p>
<p>　　ローマ＝カトリック教会だった</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ローマ帝政の末期には、五本山と呼ばれるキリスト教会が重要だった</p>
<p>　　→中でも有力だったのはローマ教会とコンスタンティノープル教会だった</p>
<p>　　　※五本山・・ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、</p>
<p>　　　　　　　　　アレクサンドリアの５教会を指す</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ教会はしだいにビザンツ皇帝が支配していた</p>
<p>　　コンスタンティノープル教会から分離する傾向を見せ始めて、</p>
<p>　　独自の活動を展開するようになっていった</p>
<p>　　→そして、６世紀末の教皇であるグレゴリウス１世以来、ローマ教会は</p>
<p>　　　ゲルマン人への布教を熱心に行った</p>
<p>　　　※さらに、６世紀から広がった修道院運動は、民衆の教化に貢献していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような流れを受けて、ローマ教会は西ヨーロッパに勢力を拡大していった</p>
<p>　　　※特に、使徒殉教の地だったローマの司教は、教皇（法王）として</p>
<p>　　　　権威を高めるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・そして、東西の教会の断絶を深めたのは、聖像をめぐる対立だった</p>
<p>　　※キリスト教徒は以前からキリスト、聖母、聖人の聖像を礼拝していた</p>
<p>　　　→この動きが、偶像崇拝を禁止するキリスト教の初期の教理に反すると考えられた</p>
<p>　　　→さらに、偶像を厳しく否定するイスラーム教と対抗する必要に迫られた</p>
<p>　　　　＝そのため、７２６年にビザンツ皇帝のレオン（レオ）３世が</p>
<p>　　　　　聖像禁止令というルールを出した</p>
<p>　　　　　※聖像禁止令・・聖像崇拝は、９世紀のなかばに復活した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ゲルマン人への布教に聖像を必要としていたローマ教会は聖像禁止令に反発した</p>
<p>　　→そのため、東西の両方の教会が対立と分裂を一層強めていくことになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような動き以降、ローマ教会はビザンツ皇帝に対抗できる</p>
<p>　　　強力な政治勢力を保護者として求める必要が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、このころにカール＝マルテルがイスラーム軍を倒して西方キリスト教世界を守った</p>
<p>　　→そこで、ローマ教皇はフランク王国に近づくことを狙った</p>
<p>　　　＝その結果、カール＝マルテルの子どものピピンがフランク王位を継承することを認めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そのお返しに、ピピンはイタリアのランゴバルド王国を攻め、</p>
<p>　　　奪ったラヴェン地方を教皇に渡した</p>
<p>　　　＝これが教皇領の始まりとなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※利害が一致したローマ教会とフランク王国は、さらに結びつきを強めていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ローマ＝カトリック教会の動きと、対立についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/831">ローマ＝カトリック教会の流れについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/831/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/831" />
	</item>
		<item>
		<title>フランク王国の発展とイスラームとの関係について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/830</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/830#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 11 Oct 2013 14:06:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[中世ヨーロッパ史]]></category>
		<category><![CDATA[アタナシウス派]]></category>
		<category><![CDATA[イスラーム]]></category>
		<category><![CDATA[カロリング朝]]></category>
		<category><![CDATA[カール＝マルテル]]></category>
		<category><![CDATA[トゥール・ポワティエ間の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[フランク王国]]></category>
		<category><![CDATA[ブルグンド王国]]></category>
		<category><![CDATA[メロヴィング家]]></category>
		<category><![CDATA[地中海]]></category>
		<category><![CDATA[東ゴート王国]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=830</guid>
		<description><![CDATA[フランク王国の発展とイスラームとの関係について考えてみます &#160; &#160; ・フランク王国の発展とイスラームとの関係について &#160; &#160; 　・４８１年に全てのフランク人が、メロヴィング家のクロ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/830">フランク王国の発展とイスラームとの関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>フランク王国の発展とイスラームとの関係について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・フランク王国の発展とイスラームとの関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・４８１年に全てのフランク人が、メロヴィング家のクローヴィスという人によって統一された</p>
<p>　　→この動きによって、フランク王国はガリア中部を支配下において、</p>
<p>　　　東ゴート王国にならぶ強国になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時、他のゲルマン人の多くが異端であるアリウス派キリスト教を信仰していた</p>
<p>　　　→しかし、グローヴィスは正統派のアタナシウス派に改宗した</p>
<p>　　　※この改宗は、後にフランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込んで、</p>
<p>　　　　西ヨーロッパの中心勢力になる一因だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・６世紀の半ばに、フランク王国がブルグンド王国などを倒して全てのガリアを統一した</p>
<p>　　※しかし、８世紀になるとメロヴィング朝という王朝の権力が衰えていくようになった</p>
<p>　　　＝その結果、王家の行政と財政の長官である宮宰という役職が</p>
<p>　　　　実権を握るようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方でこのころに、アラビア半島から急速に広がって地中海世界に侵入したイスラーム勢力が、</p>
<p>　　フランク王国に近づきつつあった</p>
<p>　　→イスラーム勢力は、ウマイヤ朝時代にアラブ人のイスラーム教徒が北アフリカを西に進み、</p>
<p>　　　イベリア半島に渡って７１１年に西ゴート王国を倒した</p>
<p>　　　※さらに、イスラーム勢力がピレネー山脈を越えてガリアに侵攻しようとしていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→そこで、メロヴィング朝の宮宰であったカール＝マルテルという人が</p>
<p>　　７３２年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を倒し、</p>
<p>　　西方キリスト教世界を外敵から守ることに成功した</p>
<p>　　※カール＝マルテルの子どものピピンという人は、</p>
<p>　　　７５１年にメロヴィング朝を廃して王位についた</p>
<p>　　　＝その結果、カロリング朝という王朝を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・今までの様々なゲルマン国家は、大体は旧西ローマ帝国の統治制度を受け継いだ</p>
<p>　　※さらに、地中海商業と都市生活にもとづく地中海世界も基本的にはまだ残っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→しかし、イスラーム勢力の侵入と同時に、地中海世界の統一性が崩れ出してきてしまった</p>
<p>　　　＝その結果、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　　・地中海がイスラーム勢力に支配された</p>
<p>　　　　・キリスト教徒が自由に交通できなくなった</p>
<p>　　　　・地中海の商業圏が衰退してしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・フランク王国の流れをおさえる</p>
<p>・イスラームの侵入によるヨーロッパの変化をおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/830">フランク王国の発展とイスラームとの関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/830/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/830" />
	</item>
	</channel>
</rss>
