ローマ=カトリック教会の流れについて
ローマ=カトリック教会の流れについて考えてみます
・ローマ=カトリック教会の流れについて
※フランク王国と協同して西ヨーロッパ世界の形成に貢献したのが、
ローマ=カトリック教会だった
・ローマ帝政の末期には、五本山と呼ばれるキリスト教会が重要だった
→中でも有力だったのはローマ教会とコンスタンティノープル教会だった
※五本山・・ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、
アレクサンドリアの5教会を指す
・西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ教会はしだいにビザンツ皇帝が支配していた
コンスタンティノープル教会から分離する傾向を見せ始めて、
独自の活動を展開するようになっていった
→そして、6世紀末の教皇であるグレゴリウス1世以来、ローマ教会は
ゲルマン人への布教を熱心に行った
※さらに、6世紀から広がった修道院運動は、民衆の教化に貢献していった
→上のような流れを受けて、ローマ教会は西ヨーロッパに勢力を拡大していった
※特に、使徒殉教の地だったローマの司教は、教皇(法王)として
権威を高めるようになっていった
・そして、東西の教会の断絶を深めたのは、聖像をめぐる対立だった
※キリスト教徒は以前からキリスト、聖母、聖人の聖像を礼拝していた
→この動きが、偶像崇拝を禁止するキリスト教の初期の教理に反すると考えられた
→さらに、偶像を厳しく否定するイスラーム教と対抗する必要に迫られた
=そのため、726年にビザンツ皇帝のレオン(レオ)3世が
聖像禁止令というルールを出した
※聖像禁止令・・聖像崇拝は、9世紀のなかばに復活した
・ゲルマン人への布教に聖像を必要としていたローマ教会は聖像禁止令に反発した
→そのため、東西の両方の教会が対立と分裂を一層強めていくことになった
→上のような動き以降、ローマ教会はビザンツ皇帝に対抗できる
強力な政治勢力を保護者として求める必要が出てきた
・一方で、このころにカール=マルテルがイスラーム軍を倒して西方キリスト教世界を守った
→そこで、ローマ教皇はフランク王国に近づくことを狙った
=その結果、カール=マルテルの子どものピピンがフランク王位を継承することを認めた
→そのお返しに、ピピンはイタリアのランゴバルド王国を攻め、
奪ったラヴェン地方を教皇に渡した
=これが教皇領の始まりとなった
※利害が一致したローマ教会とフランク王国は、さらに結びつきを強めていった
ポイント
・ローマ=カトリック教会の動きと、対立についておさえる
このあたりが今回のポイントです