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	<title>アラエス &#187; 官吏登用法</title>
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	<item>
		<title>宋の統治と統治に関する動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/800</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/800#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:23:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[太宗]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[官吏登用法]]></category>
		<category><![CDATA[形勢戸]]></category>
		<category><![CDATA[文治主義]]></category>
		<category><![CDATA[新法]]></category>
		<category><![CDATA[杭州]]></category>
		<category><![CDATA[科挙]]></category>
		<category><![CDATA[趙匡胤]]></category>
		<category><![CDATA[靖康の乱]]></category>

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		<description><![CDATA[宋の統治とその動きについて考えてみます &#160; &#160; ・宋の統治について &#160; &#160; 　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った 　　→その次に出てきた [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>宋の統治とその動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・宋の統治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った</p>
<p>　　→その次に出てきた太宗という人は、中国を統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋は、文治主義という動きをとった</p>
<p>　　※文治主義・・軍人ではなく、学識のある文人の官僚によって政治を行うこと</p>
<p>　　※なぜ、宋は文治主義をとったのか</p>
<p>　　　→当時の宋は、藩鎮勢力が大量に出てきていたり、武断政治の風潮が強かったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、節度使が足りなくなるたびに、文官を当てて兵力や財力を奪っていた</p>
<p>　　→こうすることで、皇帝の親衛軍を強化していた</p>
<p>　　　＝当時は、中央集権を目指していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、科挙が官吏登用法の中心として扱われるようになった</p>
<p>　　※隋の時代にも科挙はあったが、宋の科挙は官僚になるための唯一の道として扱われていた</p>
<p>　　　さらに、殿試（皇帝みずからが試験官となって宮中で行う最終試験のこと）も</p>
<p>　　　宋の時代から始まった</p>
<p>　　　→こうすることで、王と官僚とのつながりを強めていたと言われている</p>
<p>　　　　＝以上の動きによって、戦乱の時に没落した貴族ではなく、</p>
<p>　　　　　科挙の官僚が皇帝のそばについて政治を行うようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※科挙について</p>
<p>　　　　・科挙は、男性であればほとんどが受験することが出来た</p>
<p>　　　　・この時の科挙は、儒学や詩文などを学ぶ必要があり、合格も非常に難しかった</p>
<p>　　　　・結局、科挙で合格できるのは、主に経済力のある新興地主層の人達だった</p>
<p>　　　　　＝貴族に代わって新しく勢力を伸ばしてきたこのような人たちを、形勢戸という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北宋では、契丹や西夏などの北方の民族に圧迫されていたり、</p>
<p>　　集権的な軍事の体制をとっていたりした</p>
<p>　　→そのため、北宋は防衛費が増えることによる国家財政のピンチというのが</p>
<p>　　　常に大きな問題だった</p>
<p>　　　＝そこで、１１世紀後半に神宗という王が、王安石という人を宰相に使って、</p>
<p>　　　　政治の根本的な改革を狙った</p>
<p>　　　　※王安石が行なった改革を新法という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※新法について</p>
<p>　　　　・青苗、均輸、市易、募役、保甲などの様々な法を作った</p>
<p>　　　　　　→・青苗・・植え付けの時に貧しい農民へ金銭や穀物などを低金利で貸し付けること</p>
<p>　　　　　　　・均輸・・物資の流通を円滑にすることと、物価安定についての策のこと</p>
<p>　　　　　　　・市易・・中小の商人への低金利の貸し付けのこと</p>
<p>　　　　　　　・募役・・力役の代わりに免疫銭を出させて希望者を雇用すること</p>
<p>　　　　　　　・保甲・・民兵の訓練や治安維持のための農村組織のこと</p>
<p>　　　　・王安石は、新法を通して以下の２つを考えていた</p>
<p>　　　　　　→・農民や中小商工業者の生活の安定と生産の増加を目指した</p>
<p>　　　　　　　・経費節減と歳入の増加によって、国家財政の安定と軍事力の強化を狙った</p>
<p>　　　　　　　　＝王安石の新法は、富国強兵の策だった</p>
<p>　　　　・新法は、地主や大商人の利益を低くして、政府の収入を増やすことを目指す改革だった　</p>
<p>　　　　　→そのため、反発する官僚も多かった</p>
<p>　　　　　　＝結果的に、王安石の引退後に新法党と旧法党との対立が長く続くことになった</p>
<p>　　　　　　　※この対立は、宋の国力を弱めることになった</p>
<p>　　　　　　　※旧法党・・司馬光を中心とした王安石の新法に反対する一派のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１２世紀の初めに金は、遼を滅ぼし、華北を占領した</p>
<p>　　→そして、金は１１２６～２７年に、宋の都である開封を陥落させ、</p>
<p>　　　上皇の徽宗と皇帝の欽宗という人をとらえた</p>
<p>　　　＝この出来事を、靖康の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→靖康の乱の後、皇帝の弟の高宗という人が江南に逃れて王の位についた</p>
<p>　　　＝高宗は、南宋という国を作り、臨安（現在の杭州）を首都にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※この時、政治の話し合いの中心は、金に対する政策だった</p>
<p>　　　　→政策については、秦檜という人を中心にした和平派と、</p>
<p>　　　　　岳飛という人を中心とした主戦派で対立した</p>
<p>　　　　　＝この対立は、和平派が勝利したため、金との間に和議を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　→この結果、淮河というところを境にして、北は金、南は南宋、</p>
<p>　　　　　というように２つに分かれた状態が続いた</p>
<p>　　　　→そして、宋は金に対して臣下の礼を取り、毎年銀や絹を金に送ることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・宋の動きについておさえる</p>
<p>・宋の後の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p>
</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>漢代の社会と文化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/780</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/780#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 00:13:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア・アメリカ古代史]]></category>
		<category><![CDATA[五経]]></category>
		<category><![CDATA[史記]]></category>
		<category><![CDATA[官吏登用法]]></category>
		<category><![CDATA[官学]]></category>
		<category><![CDATA[漢]]></category>
		<category><![CDATA[紀伝体]]></category>
		<category><![CDATA[編年体]]></category>
		<category><![CDATA[董仲舒]]></category>
		<category><![CDATA[訓詁学]]></category>
		<category><![CDATA[陰陽五行]]></category>

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		<description><![CDATA[漢代の社会と文化ついて考えてみます &#160; &#160; ・漢代の社会と文化について &#160; &#160; 　・中国では、春秋・戦国時代に氏族制度が崩れて以来、 　　５～６人程度の小家族によって行われる農業経 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/780">漢代の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>漢代の社会と文化ついて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・漢代の社会と文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国では、春秋・戦国時代に氏族制度が崩れて以来、</p>
<p>　　５～６人程度の小家族によって行われる農業経営が中国の経済を支えていた</p>
<p>　　※秦と漢の国家が理想としたのも、皇帝が官僚を使って</p>
<p>　　　小家族の農民たちを直接おさめる体制だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→実際には、飢饉、徭役、重い税が理由で、土地を売って没落する農民も多かった</p>
<p>　　　　＝この時に、多くの土地を買い集めた豪族は、没落した農民を奴隷や小作人として</p>
<p>　　　　　支配下に入れて勢力をのばした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※皇帝は、豪族の土地所有を制限しようとする政策をとったものの、</p>
<p>　　　　効果は得られなかった</p>
<p>　　　　＝結果的に、地方の長官の推薦による官吏登用法（郷挙里選）によって、</p>
<p>　　　　　勢力のある豪族は官僚となって国の政治に進出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・漢代の初めに、法家や道家の思想が力を持った</p>
<p>　　→武帝の時代は、董仲舒という人の提案によって、儒学が官学になった</p>
<p>　　　＝その結果、礼と徳の思想を重視することによる社会秩序の安定化が目指された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→儒学の主な経典として、五経が定められた</p>
<p>　　　※特に、後漢の時代には、鄭玄などの学者による訓詁学というのが発展して、</p>
<p>　　　　経典の詳しい注釈書が作られた</p>
<p>　　　※五経・・一般的に、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の５つを指す</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→一方で、陰陽五行の考え方も広く信じられるようになった</p>
<p>　　　※この考え方は、王朝の交替の説明に用いられるなど、</p>
<p>　　　　政治的にも大きな影響力があった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の書物は、主に竹簡に書かれていた</p>
<p>　　→その後、後漢の時代に製紙技術が改良されたため、紙が次第に普及していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・文字は、今日の漢字と大差のない隷書というものに統一された</p>
<p>　　※この時に、辞書も作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・漢代以前の歴史を伝えるもっとも重要な書物として、</p>
<p>　　武帝の時期の司馬遷という人がまとめた「史記」だった</p>
<p>　　→「史記」は、大昔から武帝の時期にいたるまでの歴史を紀伝体で書き、</p>
<p>　　　当時を生き生きと描いている</p>
<p>　　　※歴史書の書き方には、紀伝体と編年体の２種類がある</p>
<p>　　　　・紀伝体・・皇帝の事績（本紀）と功臣などの伝記（列伝）を中心とする歴史書の書き方</p>
<p>　　　　・編年体・・年月順に記す歴史書の書き方</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→「史記」とそれに続く後漢の班固という人が書いた「漢書」以後、</p>
<p>　　　紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・漢代の社会と文化についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/780">漢代の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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