宋の統治と統治に関する動きについて
宋の統治とその動きについて考えてみます
・宋の統治について
・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、960年に宋(北宋)という国を作った
→その次に出てきた太宗という人は、中国を統一した
・宋は、文治主義という動きをとった
※文治主義・・軍人ではなく、学識のある文人の官僚によって政治を行うこと
※なぜ、宋は文治主義をとったのか
→当時の宋は、藩鎮勢力が大量に出てきていたり、武断政治の風潮が強かったから
・宋では、節度使が足りなくなるたびに、文官を当てて兵力や財力を奪っていた
→こうすることで、皇帝の親衛軍を強化していた
=当時は、中央集権を目指していた
・宋では、科挙が官吏登用法の中心として扱われるようになった
※隋の時代にも科挙はあったが、宋の科挙は官僚になるための唯一の道として扱われていた
さらに、殿試(皇帝みずからが試験官となって宮中で行う最終試験のこと)も
宋の時代から始まった
→こうすることで、王と官僚とのつながりを強めていたと言われている
=以上の動きによって、戦乱の時に没落した貴族ではなく、
科挙の官僚が皇帝のそばについて政治を行うようになっていった
※科挙について
・科挙は、男性であればほとんどが受験することが出来た
・この時の科挙は、儒学や詩文などを学ぶ必要があり、合格も非常に難しかった
・結局、科挙で合格できるのは、主に経済力のある新興地主層の人達だった
=貴族に代わって新しく勢力を伸ばしてきたこのような人たちを、形勢戸という
・北宋では、契丹や西夏などの北方の民族に圧迫されていたり、
集権的な軍事の体制をとっていたりした
→そのため、北宋は防衛費が増えることによる国家財政のピンチというのが
常に大きな問題だった
=そこで、11世紀後半に神宗という王が、王安石という人を宰相に使って、
政治の根本的な改革を狙った
※王安石が行なった改革を新法という
※新法について
・青苗、均輸、市易、募役、保甲などの様々な法を作った
→・青苗・・植え付けの時に貧しい農民へ金銭や穀物などを低金利で貸し付けること
・均輸・・物資の流通を円滑にすることと、物価安定についての策のこと
・市易・・中小の商人への低金利の貸し付けのこと
・募役・・力役の代わりに免疫銭を出させて希望者を雇用すること
・保甲・・民兵の訓練や治安維持のための農村組織のこと
・王安石は、新法を通して以下の2つを考えていた
→・農民や中小商工業者の生活の安定と生産の増加を目指した
・経費節減と歳入の増加によって、国家財政の安定と軍事力の強化を狙った
=王安石の新法は、富国強兵の策だった
・新法は、地主や大商人の利益を低くして、政府の収入を増やすことを目指す改革だった
→そのため、反発する官僚も多かった
=結果的に、王安石の引退後に新法党と旧法党との対立が長く続くことになった
※この対立は、宋の国力を弱めることになった
※旧法党・・司馬光を中心とした王安石の新法に反対する一派のこと
・12世紀の初めに金は、遼を滅ぼし、華北を占領した
→そして、金は1126~27年に、宋の都である開封を陥落させ、
上皇の徽宗と皇帝の欽宗という人をとらえた
=この出来事を、靖康の乱という
→靖康の乱の後、皇帝の弟の高宗という人が江南に逃れて王の位についた
=高宗は、南宋という国を作り、臨安(現在の杭州)を首都にした
※この時、政治の話し合いの中心は、金に対する政策だった
→政策については、秦檜という人を中心にした和平派と、
岳飛という人を中心とした主戦派で対立した
=この対立は、和平派が勝利したため、金との間に和議を結んだ
→この結果、淮河というところを境にして、北は金、南は南宋、
というように2つに分かれた状態が続いた
→そして、宋は金に対して臣下の礼を取り、毎年銀や絹を金に送ることになった
ポイント
・宋の動きについておさえる
・宋の後の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです