唐の変化と五代十国の始まりの時代について
唐の変化と五代十国の始まりの時代について考えてみます
・唐の変化について
・8世紀に、唐の支配体制は大きく変化した
・7世紀の終わりに、則天武后という人が帝位についた
※則天武后は、高宗の死後帝位について国号を周と改めた、中国史上唯一の女帝だった
→則天武后は、科挙官僚を積極的に使った
=この動きは、政治の担当者が古い家柄の貴族から科挙官僚へ移った一つのきっかけだった
・8世紀の初めに、玄宗という人が即位した
→玄宗は、政治を引き締める努力を行った
※しかし、人口の増加や商業の発達に伴って、農民の間に貧富の差が開いてきた
=そのため、没落する農民が増え、均田制、租調庸制、府兵制が崩れていった
※そこで、府兵制の代わりに、傭兵を使うという募兵制が採用された
→募兵制の指揮官だった節度使という人達が辺境の防備にあたるようになっていった
・玄宗が年を取った後は、玄宗に愛されていた楊貴妃の一族が実権を握るようになっていった
→しかし、一族が権力を握ることに対する反発から、節度使の安禄山とその部将の
史思明という人が反乱を起こした
=この反乱を、安史の乱という
※安禄山・・ソグド人の父と突厥人の母を持つ武官で、北方の3節度使を兼ねていた
→安史の乱は8年続き、ウイグルの援軍によって鎮圧された
=その結果、中央政府の統制力は弱まり、有力な節度使が地方の行政や財政の権力を握って、
自立の勢いを示した
(この動きを、藩鎮という)
※この時に、ウイグルや吐蕃の侵入も何度かあり、唐の領土が小さくなっていった
・唐は、財政再建のために、780年に租調庸制に代わって両税法というものを採用した
→両税法によって、現実に所有している土地に応じて、夏と秋の2回の税を課すことになった
・塩の専売も重要な財源になった
※そのため、塩の密売者は厳しく取り締まられた
→しかし、9世紀後半には、塩の密売人である黄巣という人が反乱を起こし、
反乱が全国に広がるということが起きた
=この反乱を、黄巣の乱という
=結果的には、10世紀の初めに節度使の朱全忠という人が唐を滅ぼされた
・五代十国の始まりの時代について
・朱全忠は、汴州(開封)というところを都として、後梁という国を建てた
→この後、約50年間に華北では、有力な節度使が建てた五つの王朝が交替していた
→さらに、その他の地方でも、約10の国が誕生したり、滅んだりした
=そのため、この時の時代を五代十国という
※ここでいう五つの王朝は、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝を指す
・唐代の後半から、貴族の衰えが進んでいった
→さらに、五代十国の戦乱の時代には、貴族が自分たちの経済の基盤である荘園を失い、
より没落していった
→そこで、貴族に代わって、新興の地主層が力を伸ばしてきた
=新興の地主層は、今までのように荘園を直接経営して自給的な生活を送るのではなく、
買い集めた土地を小作人(佃戸)に貸して、小作料を取るという方式で
経済力をつけていった
ポイント
・唐の時代の出来事と流れ、変化の様子をおさえる
・五代十国の時代の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです