唐代の制度と文化について
唐代の制度と文化について考えてみます
・唐代の制度と文化について
・唐は、隋の制度をうけついだ
→その時の制度を、律、令、格、式という法制に基づく、整然とした体形に作り上げた
=このような制度を、律令制度という
→中央には、三省(中書、門下、尚書)・六部(吏、戸、礼、兵、刑、工)・御史台を
中心とする官制を用意し、地方には、州県制という制度を用意した
※それぞれの担当には、以下のような役割があった
・中書省・・詔勅などの草案を作成
・門下省・・中書省の草案を審議
・尚書省・・門下省の審議が通った草案を執行
→尚書省には、吏(官吏の任用)、戸(財政)、礼(祭祀や文教)
兵(軍事)、刑(司法)、工(土木)の六部が所属していた
・御史台・・行政監査を担当した
=このような政治の制度の根本は、成年男性に土地を均等に支給して(均田)、
穀物や絹布などの税や、力役(一定期間、役所などで働かせる義務労働)を課すという、
租・調・庸の税制だった
→この税制は、地主の力をおさえて、自作農に土地を与えてそれを国家が
直接支配するという唐の基本的な原則を示していると言われている
※実際に、完璧な均田制は難しかったが、一部では均田制が行なわれたことが
西域の文書から立証されている
→実際は、高級官僚の大土地所有は認められていた
→そのため、上級官職を占める貴族は、多くの荘園を持って、
奴隷のように農民を使って耕作させていた
・軍隊については、西魏の時代に始まった府県制が使われた
→そのため、農民のなかから兵役を任された人が、一定期間、都の警護や辺境の守備を
行なうことになっていた
・首都の長安は、皇帝の住む宮城から南にのびる大通りを軸に、
各種の施設が東西対称に配置させる広い都市計画だった
→この都市計画は、東アジアのそれぞれの地域の首都の建設のモデルになった
→長安には、周辺の国々からの朝貢の使節、留学生、商人などが集まってきた
=この時に、以下のようなものが作られた
・仏教寺院や道教寺院
・キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)の寺院
・マニ教の寺院 など
※特に、ササン朝が滅亡した時には、多くのイラン人が長安に移住し、
ポロ競技などのイラン系風俗が流行した
=イラン系風俗の流行は、当時の絵画や唐三彩の登記にも反映されていると言われている
※中には、外国人がその才能を認められて官僚として用いられることもあった
→代表的な人に、唐に留学して安南節度使に登用され、
李白らと交際した日本人の阿倍仲麻呂という人がいる
=このようにして、長安はアジアの様々な地域の人々を結ぶ国際色豊かな都市になった
※一方で、海路の中国にいたる、アラブやイラン出身のムスリム商人も増えてきた
→そのため、揚州や広州など、華中や華南の港町が発展していった
・唐代には、仏教が帝室や貴族の保護を受けて栄えた
※玄奘や義浄などの人達は、インドから経典を持ち帰って、
その後の仏教に大きな影響を与えたと言われている
→仏教は、最初は異国の珍しいもの、という見方をされていたが、
段々と中国に根付いていった
=その結果、浄土宗や禅宗などの特色ある宗派が作られていった
・科挙の制度の整備に伴って、漢代からの訓詁学が改めて重視された
※その時に、孔穎達という人を中心に、「五経正義」というのが作られた
・さらに、科挙で詩作が重視されるようになった
→杜甫、李白、白居易などの人達は、独創的な詩風で、有名になっていった
=唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、
個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運が生まれてきた
※その代表的なものに、以下のようなものがある
・韓愈や柳宗元の古文復興の主張
・呉道玄の山水画
・顔真卿の書法
→これらは、漢以前の手法に戻った手法のさきがけだと言われている
ポイント
・唐代の制度についておさえる
・唐代の文化についておさえる
・唐代の制度と文化との関連についておさえる
このあたりが今回のポイントです