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	<title>アラエス &#187; 嵯峨天皇</title>
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	<item>
		<title>藤原氏北家の成長について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1127</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1127#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:55:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[安和の変]]></category>
		<category><![CDATA[嵯峨天皇]]></category>
		<category><![CDATA[延喜・天暦の治]]></category>
		<category><![CDATA[応天門の変]]></category>
		<category><![CDATA[承和の変]]></category>
		<category><![CDATA[摂政]]></category>
		<category><![CDATA[斉世親王]]></category>
		<category><![CDATA[村上天皇]]></category>
		<category><![CDATA[橘逸勢]]></category>
		<category><![CDATA[阿衡の紛議]]></category>

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		<description><![CDATA[藤原氏北家の成長について考えてみます &#160; &#160; ・藤原氏北家の成長について &#160; 　・９世紀の初めに桓武天皇や嵯峨天皇が、貴族をおさえて強い権力を握り、 　　国の政治を行っていった 　　→この時 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1127">藤原氏北家の成長について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>藤原氏北家の成長について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・藤原氏北家の成長について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・９世紀の初めに桓武天皇や嵯峨天皇が、貴族をおさえて強い権力を握り、</p>
<p>　　国の政治を行っていった</p>
<p>　　→この時期に藤原氏の北家が天皇と強い関係を持つようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原氏の北家出身の藤原冬嗣という人が、嵯峨天皇に信頼されて蔵人頭になったので、</p>
<p>　　天皇と関係を結ぶようになった</p>
<p>　　→その後に、藤原冬嗣の子どもの藤原良房という人が、</p>
<p>　　　８４２年に承和の変という事件に巻き込まれた</p>
<p>　　　＝承和の変によって藤原氏の中での北家の力が強くなっていく一方で、</p>
<p>　　　　伴健岑と橘逸勢などの勢力を退けた</p>
<p>　　　　※承和の変・・伴健岑と橘逸勢が政治を担う人に対して兵を出そうとして</p>
<p>　　　　　　　　　　　流罪になった事件のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・８５８年に清和天皇という人が即位すると、藤原良房は天皇の外祖父（母方の祖父）として、</p>
<p>　　摂政を担当した</p>
<p>　　　※摂政・・天皇が子供や女性などの時に、天皇に代わって政治を行う人のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・８６６年に応天門の変という事件が起き、伴氏を衰退させた</p>
<p>　　　※応天門の変・・大納言の伴善男という人が応天門（朝堂院の正門）に放火して、</p>
<p>　　　　　　　　　　　その放火を左大臣の源信という人のせいにしようとした</p>
<p>　　　　　　　　　　　ことが発覚し、伴善男が流罪になった事件のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　　→この事件の時に藤原良房が正式に摂政に任命された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原良房の後に、太政大臣の藤原基経という人に支持されて光孝天皇という人が即位した</p>
<p>　　→その後、８８４年に藤原基経は関白になった</p>
<p>　　　※関白・・成人した後の天皇を補佐して、政治や事務を行う役職のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原基経は、宇多天皇が即位する時に出した勅書に抗議して、８８８年に勅書を撤回させた</p>
<p>　　＝この出来事を阿衡の紛議と言う</p>
<p>　　　※宇多天皇が出した勅書には、基経を阿衡（摂政・関白の別名）に任命するとしたが、</p>
<p>　　　　中国の古典の阿衡には実職がともなっていなかったので、宇多天皇は勅書を撤回して、</p>
<p>　　　　改めて基経を関白にした</p>
<p>　　→この動きによって、関白の権力が強くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→このような流れがあり、藤原氏北家の勢力が強くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原基経が死んだ後に、藤原氏が外戚関係に無かった宇多天皇は、摂政と関白を置かないで、</p>
<p>　　学者の菅原道真を重視した</p>
<p>　　※しかし、その後に醍醐天皇という人が即位したときに、藤原氏は計画を立てて</p>
<p>　　　道真を政界から追い出した</p>
<p>　　　→９０１年に左大臣の藤原時平という人は、菅原道真が女婿の斉世親王という人を</p>
<p>　　　　即位させようとしていると訴えた</p>
<p>　　　→そのため、菅原道真は右大臣から太宰権帥に左遷され、そこで死んでしまった</p>
<p>　　　　＝この道真の怨霊の崇りを恐れて祀られた京都の北野天神という神が、</p>
<p>　　　　　後に学問の神として崇められるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１０世紀の前半は、醍醐天皇や村上天皇が自分で政治を行った</p>
<p>　　＝この動きは、後で「延喜・天暦の治」として称えられることになった</p>
<p>　　　※・醍醐天皇の時代に、班田を推奨したり、延喜の荘園整理令を出したりして、</p>
<p>　　　　　律令政治を復活させる努力をした</p>
<p>　　　　・醍醐天皇の時代に、「日本三代実録」（六国史の最後）、「延喜格式」、</p>
<p>　　　　　「古今和歌集」の編纂など</p>
<p>　　　　　文化的な動きが行われるようになった</p>
<p>　　　　・村上天皇の時代に、乾元大宝（本朝十二銭の最後）を作った</p>
<p>　　　　・村上天皇の時代に、中央と地方の治安が悪くなり、</p>
<p>　　　　　律令を土台にした政治はほとんど行われなくなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※しかし、天皇が政治を行っている間に藤原忠平が摂政・関白を行い、</p>
<p>　　　　太政官の上の立場になって、権力を握った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・村上天皇が死んだ後の９６９年に左大臣の源高明という人が左遷される事件が起きた</p>
<p>　　＝この出来事を安和の変という</p>
<p>　　　※安和の変の時に、藤原氏北家の勢力がさらに強くなり、安定したものになった</p>
<p>　　　　→その後は、ほとんどの場合で摂政と関白が設置されるようになり、</p>
<p>　　　　　摂政と関白の地位には、藤原忠平の子孫がつくようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・藤原氏北家の動きについて押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1127">藤原氏北家の成長について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>平安時代初期の政治制度について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1124</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1124#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:33:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[三代格式]]></category>
		<category><![CDATA[令外官]]></category>
		<category><![CDATA[健児]]></category>
		<category><![CDATA[勘解由使]]></category>
		<category><![CDATA[嵯峨天皇]]></category>
		<category><![CDATA[平城天皇]]></category>
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		<category><![CDATA[蔵人頭]]></category>
		<category><![CDATA[薬子の変]]></category>
		<category><![CDATA[藤原冬嗣]]></category>

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		<description><![CDATA[平安時代の初めの政治の仕組みと、地方や貴族の変化について考えてみます &#160; &#160; ・平安時代初期の政治制度について &#160; 　・桓武天皇という人が以下のようなことを行った 　　→・定員を超えていた国 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1124">平安時代初期の政治制度について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>平安時代の初めの政治の仕組みと、地方や貴族の変化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・平安時代初期の政治制度について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・桓武天皇という人が以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・定員を超えていた国司や郡司を無くした</p>
<p>　　　・勘解由使という役職を作り、国司の交代の時の事務的な手続きに</p>
<p>　　　　ミスが無いかを厳しく確認した</p>
<p>　　　　　※・勘解由使は基本的に解由状（前の国司から次の国司に移る時に</p>
<p>　　　　　　　渡す文書）を監視した</p>
<p>　　　　　　・勘解由使は令外官だった</p>
<p>　　　　　　　　※令外官・・令に決められていない新しい官職のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・兵士の質が低下したので、東北や九州以外の地域の軍団と兵士を無くした</p>
<p>　　　　→その代わり、健児（郡司の子弟や有力農民の志願によって作られた</p>
<p>　　　　　少数精鋭の軍人）を採用した</p>
<p>　　　　　※健児には、６０日交代で国府の警備や国内の治安維持を行わせていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※しかし、桓武天皇の改革は、十分な成果が出なかったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・桓武天皇の改革が、平城天皇、嵯峨天皇に引き継がれた</p>
<p>　</p>
<p>　・嵯峨天皇という人が以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・都を平城京に移そうとする平常天皇と対立し、「二所朝廷」と呼ばれる混乱が起きた</p>
<p>　　　　→結局嵯峨天皇が兵を出して平城天皇に勝った</p>
<p>　　　　　※この時、平城天皇は出家し、平城天皇に愛されていた藤原薬子という人が自殺、</p>
<p>　　　　　　薬子の兄の藤原仲成という人が射殺、という事件が起きた</p>
<p>　　　　　　＝この事件のことを、薬子の変（平城太政天皇の変）と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　※薬子の変の時に、天皇の命令を迅速に官の組織に伝えることを目的として、</p>
<p>　　　　　蔵人頭という役職を作った</p>
<p>　　　　　→蔵人頭のための役所を蔵人所と言い、蔵人所に所属する蔵人は、</p>
<p>　　　　　　結果的に天皇の側近として重要な役割を果たすようになった</p>
<p>　　　　　　※蔵人頭を作った時は、藤原冬嗣という人を任命していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・検非違使を作った</p>
<p>　　　　　※検非違使・・平安京の中での警察のこと</p>
<p>　</p>
<p>　　　・法律の制度について、律令が作られた後の法律を格と式に分けて整理した</p>
<p>　　　　　※・格・・律令のルールを補足したり、修正したりすること</p>
<p>　　　　　　・式・・施行細則のこと</p>
<p>　　　　　　　→当時は、格と式を編集することで、弘仁格式というものが作られた</p>
<p>　　　　　　　→弘仁格式の後に、貞観格式、延喜格式が作られた</p>
<p>　　　　　　　　＝この３つの格式をまとめて、三代格式と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　※三代格式について</p>
<p>　　　　　・格は、三代の格を集めた「類聚三代格」というものが伝わっている</p>
<p>　　　　　・式は、「延喜式」が伝わっている</p>
<p>　　　　　・８３３年に、「令義解」という、令の解釈を公式に統一したものが、</p>
<p>　　　　　　清原夏野によって作られた</p>
<p>　　　　　・９世紀後半に、「令集解」という、令の注釈を集めたものが、</p>
<p>　　　　　　惟宗直本という人によって作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・平安時代初期の政治制度についてを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1124">平安時代初期の政治制度について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>平安時代の誕生について　－平安京の始まりと蝦夷との戦い－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1122</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1122#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:24:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[坂上田村麻呂]]></category>
		<category><![CDATA[城柵]]></category>
		<category><![CDATA[嵯峨天皇]]></category>
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		<category><![CDATA[桓武天皇]]></category>
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		<category><![CDATA[胆沢城]]></category>
		<category><![CDATA[藤原種継]]></category>
		<category><![CDATA[阿弖流爲]]></category>

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		<description><![CDATA[平安時代について考えてみます &#160; &#160; ・平安京の誕生と東北の争いについて &#160; 　・平安時代ができたころの大きな出来事として、平安京の誕生と東北地方の城柵という２つがある &#160; &#038;nb [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1122">平安時代の誕生について　－平安京の始まりと蝦夷との戦い－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>平安時代について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・平安京の誕生と東北の争いについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平安時代ができたころの大きな出来事として、平安京の誕生と東北地方の城柵という２つがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・平安京ができるまでの流れ</p>
<p>　　</p>
<p>　　・光仁天皇という人が政治を行っていた時に、光仁天皇と高野新笠という人との</p>
<p>　　　間に子どもが生まれた</p>
<p>　　　＝この子どもを桓武天皇といい、この人が光仁天皇の後に天皇に即位した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・桓武天皇は、仏教政治の問題点から離れ、天皇の権力を強くした政治を目指そうとした</p>
<p>　　　→そこで、７８４年に平城京から、山背国の長岡京というところに都を移した</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　※しかし、桓武天皇に期待されている人で、長岡京を造る中心になった</p>
<p>　　　　　藤原種継という人が暗殺される事件が起きた</p>
<p>　　　　　→さらに、皇太子の早良親王（桓武天皇の弟）、大伴氏などの昔からの豪族が</p>
<p>　　　　　　しりぞけられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→そこで、７９４年に現在の京都の場所に平安京を作って、山背国を山城国と変えて、</p>
<p>　　　　もう一度都を移した</p>
<p>　　</p>
<p>　　　＝都が平安京に移ってから、源頼朝という人が鎌倉に幕府を作るまでの</p>
<p>　　　　約４００年間のことを平安時代と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・東北地方の城柵について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・東北地方では、城柵が作られるようになっていった</p>
<p>　　　※城柵・・軍事的な防御施設のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・城柵には、政庁、役所、倉庫などが置かれている</p>
<p>　　　→結局、城柵が行政のような役割を持つようになり、そのまわりに</p>
<p>　　　　関東地方から農民（柵戸）を移住させて開拓が行われた</p>
<p>　　　　※逆に、蝦夷（東北地方の人々）は関東より西の地域に浮囚として移住をさせた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※東北地方に城柵を作った理由は、城柵を基盤として中央政府が</p>
<p>　　　　蝦夷の地域を支配したかったからだと言われている</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※しかし、７８０年に蝦夷の豪族だった伊治呰麻呂という人が乱を起こした</p>
<p>　　　　→この乱をきっかけに、東北地方では３０年以上戦争が続いたと言われている</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・７８９年に、紀古佐美という人を征東大使（東北を征討するための大使）にして、</p>
<p>　　　大軍を引き連れて東北に向かった</p>
<p>　　　→その時に東北の胆沢という地方の蝦夷の制圧をしようとしたが、</p>
<p>　　　　蝦夷の族長だった阿弖流爲という人が活躍し、</p>
<p>　　　　政府の軍が阿弖流爲の軍に負ける、という出来事が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→しかし、その後は坂上田村麻呂という人が</p>
<p>　　　　征夷大将軍（蝦夷を征討するための軍の指揮官）になった　　　</p>
<p>　　　　＝坂上田村麻呂は以下のようなことを行った</p>
<p>　　　　　・８０２年に胆沢地方に胆沢城という城を建て、阿弖流爲を坂上田村麻呂に</p>
<p>　　　　　　従わせると同時に鎮守府（蝦夷を鎮圧させるために造られた官庁のこと）を</p>
<p>　　　　　　多賀城から胆沢城に移させた</p>
<p>　　　　　・８０３年に志波城という城を建て、東北での経営を展開するための基盤とした</p>
<p>　　　　　　※この後、嵯峨天皇という人の時代に、文室綿麻呂という人が派遣されて、</p>
<p>　　　　　　　最後の城柵である徳丹城という城を建てた</p>
<p>　　　　　</p>
<p>　　　※当時は、中央政府の権力が日本海側の米代川というところまで波及していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→しかし、平安京の作成と東北の征討という２つの政策は、</p>
<p>　　国家財政を圧迫することになった</p>
<p>　　＝結果的に、８０５年に徳政論争という議論を参考にして、</p>
<p>　　　２つの政策を中止することにした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・平安京の誕生と東北の争いについてを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1122">平安時代の誕生について　－平安京の始まりと蝦夷との戦い－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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