平安時代の誕生について -平安京の始まりと蝦夷との戦い-
平安時代について考えてみます
・平安京の誕生と東北の争いについて
・平安時代ができたころの大きな出来事として、平安京の誕生と東北地方の城柵という2つがある
・平安京ができるまでの流れ
・光仁天皇という人が政治を行っていた時に、光仁天皇と高野新笠という人との
間に子どもが生まれた
=この子どもを桓武天皇といい、この人が光仁天皇の後に天皇に即位した
・桓武天皇は、仏教政治の問題点から離れ、天皇の権力を強くした政治を目指そうとした
→そこで、784年に平城京から、山背国の長岡京というところに都を移した
※しかし、桓武天皇に期待されている人で、長岡京を造る中心になった
藤原種継という人が暗殺される事件が起きた
→さらに、皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)、大伴氏などの昔からの豪族が
しりぞけられた
→そこで、794年に現在の京都の場所に平安京を作って、山背国を山城国と変えて、
もう一度都を移した
=都が平安京に移ってから、源頼朝という人が鎌倉に幕府を作るまでの
約400年間のことを平安時代と言う
・東北地方の城柵について
・東北地方では、城柵が作られるようになっていった
※城柵・・軍事的な防御施設のこと
・城柵には、政庁、役所、倉庫などが置かれている
→結局、城柵が行政のような役割を持つようになり、そのまわりに
関東地方から農民(柵戸)を移住させて開拓が行われた
※逆に、蝦夷(東北地方の人々)は関東より西の地域に浮囚として移住をさせた
※東北地方に城柵を作った理由は、城柵を基盤として中央政府が
蝦夷の地域を支配したかったからだと言われている
※しかし、780年に蝦夷の豪族だった伊治呰麻呂という人が乱を起こした
→この乱をきっかけに、東北地方では30年以上戦争が続いたと言われている
・789年に、紀古佐美という人を征東大使(東北を征討するための大使)にして、
大軍を引き連れて東北に向かった
→その時に東北の胆沢という地方の蝦夷の制圧をしようとしたが、
蝦夷の族長だった阿弖流爲という人が活躍し、
政府の軍が阿弖流爲の軍に負ける、という出来事が起きた
→しかし、その後は坂上田村麻呂という人が
征夷大将軍(蝦夷を征討するための軍の指揮官)になった
=坂上田村麻呂は以下のようなことを行った
・802年に胆沢地方に胆沢城という城を建て、阿弖流爲を坂上田村麻呂に
従わせると同時に鎮守府(蝦夷を鎮圧させるために造られた官庁のこと)を
多賀城から胆沢城に移させた
・803年に志波城という城を建て、東北での経営を展開するための基盤とした
※この後、嵯峨天皇という人の時代に、文室綿麻呂という人が派遣されて、
最後の城柵である徳丹城という城を建てた
※当時は、中央政府の権力が日本海側の米代川というところまで波及していた
→しかし、平安京の作成と東北の征討という2つの政策は、
国家財政を圧迫することになった
=結果的に、805年に徳政論争という議論を参考にして、
2つの政策を中止することにした
ポイント
・平安京の誕生と東北の争いについてを押さえる
このあたりが今回のポイントです