院政について② -院政の時期の様子-
院政について、院政の時期の様子を考えてみます
・院政の時期の様子について
・上皇のまわりには、院近臣と呼ばれる集団が集まり、院近臣が上皇の力を借りて、
収益の多い国の国司などの官職に任命されることがあった
※・院司として上皇に従った近臣たちは、最初は朝廷での官職が
さほど高いわけではなく、様々な国の国司を担当した人が多かった
・院近臣・・裕福な受領、后妃、乳母の一族などのこと
・院政の時期に、知行国の制度、院分国の制度などが広がった
→そのため、公領が知行国主や国司の自分の土地(私領)のようになった
=この動きが、院政の経済を支える基盤になったといわれている
※・院分国の制度・・院自身が国の収益を得る制度のこと
・知行国の制度・・上級の貴族に、知行国主として一つの国の支配権を与えて、
その国からの収入を知行国主に与える制度のこと
※なぜ、知行国の制度を作ったのか
・知行国主は、自分の子どもや近親の人などを国守に任命して、
現地に目代を派遣して国の支配をした
→この時に、貴族の給料を表面上は与えるとしておきながら実際は与えない
ということが起きたので、貴族の収益を確保する、という目的で
知行国の制度が作られることになった
・院政の時期には、寄進地系荘園も経済の基盤になった
→・鳥羽上皇の時代には、院のまわりに荘園の寄進が集まったり、
有力な貴族や大きな寺院への荘園の寄進なども増えた
・上皇は、近親の女性と同じような待遇を与えた
→代表的なものに、八条院領、長講堂領などがある
※・八条院領・・鳥羽法皇が皇女である八条院に伝えた荘園のこと
・長講堂領・・後白河法皇が長講堂に寄進した荘園のこと
・不輸や不入の権を持っている荘園が一般的になって、
不入の権が警察権を排除するレベルまで拡大された
=そのため、荘園の独立的な性格が強くなった
・大寺院が多くの荘園を持ち、大寺院にいる下級の僧侶を僧兵として、国司と争ったり、
朝廷に強訴(訴えや要求をすること)をして要求を通そうとしたりした
※・興福寺の僧兵を奈良法師と言い、京都に入って強訴した
・延暦寺の僧兵を山法師と言い、日吉神社の神輿をかついで強訴をした
・興福寺を南都、延暦寺を北嶺と言う
・大寺院は鎮護国家を提唱していた
→大寺院の上のような行動は、法ではなく実力で争うという、院政の時期の社会の特徴を
表現していると言われている
・神や仏の権威を恐れた貴族は、大寺院の力に対抗することができず、
武士を使って警護や鎮圧を行わせた
=このような動きがあり、武士が中央の政治の世界に進むきっかけになった
・地方は、各地の武士が館という建物を作って、一族や地域などの結びつきを強めるようになった
※特に奥羽地方では、陸奥の平泉という場所を拠点にして、藤原清衡の力が強くなっていった
・奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡の3代で約100年の間、繁栄していった
※奥州藤原氏が行ったこと
・金や馬などの産物の富で京都の文化を移入してきた
・北の方の土地との交易によって、奥州独自の文化を育てた
・奥州の2回の反乱の後に、奥州の藤原氏が勢力をきずくようになった
・北の方の産物が都に持っていかれるようになった
・藤原氏は金によって、平泉を中心に繁栄した etc
・院政の時期には、私的な土地の所有が行われるようになった
・院、大寺社、武士などが独自な権力を持つようになり、権力が分かれていくようになった
・社会を法律などではなく、実力で動かそうとする風潮が強くなっていった
→以上のような特徴を踏まえた当時の社会は、中世社会と言われるようになり、
この時期から中世社会が始まったと言われている
ポイント
・院政の時期の様子について押さえる
このあたりが今回のポイントです