鎌倉幕府の誕生について① -鎌倉幕府が出来るまでの流れ-
鎌倉幕府が出来るまでの流れについて考えてみます
・鎌倉幕府が出来るまでの流れについて
・平氏への反対勢力のうち、東国の武士団が、源氏である源頼朝のところに
集まるようになった
→そのため、勢力の中でも源頼朝の勢力が最も大きくなった
・源頼朝は、鎌倉という場所を拠点にして、主従関係を作ろうとした
→そこで、関東の荘園や公領を支配することで、御家人の土地の支配を保障していった
※御家人・・将軍と主従関係にある武士のこと
・1183年に源頼朝が京都の後白河法皇と相談して、源頼朝が東国を支配することを
承認してもらった
=このことを寿永二年十月宣旨と言う
※しかし、1185年に平氏が倒れた後、あまりにも源頼朝の力が強くなりすぎたため、
後白河法皇が源義経に源頼朝を倒すことを命令した
→この動きに対して、源頼朝は軍隊を京都に送ったため、後白河法皇よりも
強い立場になってしまった
=そのため、源頼朝が以下のようないろいろな権利を得た
→・様々な国に守護を、荘園や公領に地頭を任命する権利を得た
※守護は、最初は惣追捕使や国地頭などと呼ばれたが、
最終的に守護に統一された
・1段当たり5升という単位で兵糧米(戦いの時の兵糧のためのお金のこと)を
徴収する権利を得た
・様々な国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を得た
→以上のような動きを行ったり、権利を得たりしたので、源頼朝が東国だけでなく、
西の方も支配するようになった
=このようにして全国に源頼朝の力が広がっていったので、
武家政権としての鎌倉幕府が作られた
・鎌倉幕府を誕生させた後、源頼朝は、源義経をかばったという理由で
奥州藤原氏を倒した
※具体的にどうやって倒したのか
・藤原秀衡が死んだ後に、子どもの藤原泰衡が諦めて源頼朝の要求に従い、
源義経を殺した
→その後、源頼朝は藤原泰衡が義経を一回かばっているということを理由にして、
1189年に奥州に軍を出して藤原泰衡を倒し、
陸奥と出羽の2つの国を支配することが出来た
・源頼朝が、1190年に上洛(地方から京都に移ること)を達成して、
右近衛大将という令外官になった
→その後、1192年に後白河法皇が死んだため、源頼朝が征夷大将軍という役職に
任命された
=このようにして、鎌倉幕府が名前だけでなく、内容的にも成立してから、
滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼ぶ
※幕府は、武士のトップが作った政権のことを言い、
征夷大将軍は、源頼朝が任命されてからは、武士をまとめる地位を示す
官職のことを言ったが、昔は幕府も征夷大将軍も意味が違っていた
ポイント
・鎌倉幕府が出来るまでの流れについておさえる
このあたりが今回のポイントです