承久の乱について
承久の乱について考えてみます
・承久の乱について
・幕府の成立したり勢力が拡大したりしたため、京都の朝廷では、今までの朝廷の政治を
立て直すことが行われた
→その朝廷の立て直しを行った中心だったのが、後鳥羽上皇という人だった
・後鳥羽上皇は、以下のような行動をとった
→・広く大量にあった皇室領の荘園を後鳥羽上皇が持つようになった
・新しく西面の武士(院の西に勤務した武士)を置いて、軍事力を高めた
→このような行動を取ることで、院政を強めつつ、幕府と対決して朝廷の勢力を
復活させる動きを強めた
・そのような状況の中で、1219年に将軍の源実朝が源頼家の
遺児(親が死んだ後に残された子ども)である公暁という人に暗殺された
という事件が起きた
→この出来事によって、朝廷と幕府との関係が悪くなった
※朝廷と幕府との関係が悪くなった流れ
・北条義時は、源実朝が死んだ後に、皇族を将軍に招き入れるための交渉を行った
※しかし、上皇が拒否して交渉が上手に進まなかった
→そこで幕府は、源頼朝の遠い血縁関係にある摂関家出身の
幼い藤原頼経を将軍として迎え入れた
=この後2代続いた摂関家出身の将軍を、藤原将軍(摂関家将軍)と呼ぶ
→関係が不安定になると、1221年に後鳥羽上皇は、大寺院の僧兵、
畿内や西国の武士、北条氏の勢力の拡大に反対する東国武士の一部を味方につけた
=この動きによって、北条氏を倒す兵が誕生した
→・しかし、後鳥羽上皇の期待に反して、後鳥羽上皇についた東国武士のほとんどは、
北条氏のほうに集まって戦いにのぞんだ
※幕府が、源義時の子どもである源泰時と弟の源時房などを中心とした軍を
京都に送り込んで攻めた
→1か月の戦いのあと、結果的に幕府の圧倒的な勝利に終わり、3上皇を配流した
=この出来事を承久の乱と言う
※3上皇の配流の状況について
・後鳥羽上皇を隠岐に流した
・土御門上皇という人を土佐(後の阿波)に流した
・順徳上皇という人を佐渡に流した
※仲恭天皇という人は天皇の地位から降ろされた
・承久の乱の後の状況について
・承久の乱の後、幕府が皇位の継承に加わるようになった
・京都に六波羅探題という職が設置された
→六波羅探題が、朝廷の監視、京都の内と外の警備、西国の指示などを行った
・後鳥羽上皇のほうについた、貴族や武士の土地である約3000か所を没収して、
幕府側についた御家人を、没収した土地の地頭に任命した
※没収した土地の地頭に任命する時に、これまで給料が少なかった土地については、
新補率法を定めて、新補地頭の給料を保障した
※新補率法の内容
・田畑11町ごとに1町の土地を、地頭に与える
・田地1段につき5升の米(加徴米)を、地頭に与える
・山や川からの収益の半分を、地頭に与える
→以上の動きによって、畿内や西国の荘園と公領にも、幕府が影響を及ぼすようになった
→朝廷では、引き続き院政が行われた
※しかし、承久の乱によって、朝廷と幕府の両方が支配する状況が変わった
=幕府が優位な立場になり、幕府が皇位の継承や朝廷の政治にも関わるようになった
ポイント
・承久の乱の内容とその後を押さえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
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