鎌倉幕府の誕生について② -幕府の政治スタイル-

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投稿者:       投稿日時:2013/10/22 02:52      
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鎌倉幕府の政治スタイルについて考えてみます

 

 

・幕府の政治スタイルについて

 

 ・幕府のスタイルは簡単で実用的だったと言われている

 

  →中央機関には、侍所、政所、問注所などが置かれた

   ・侍所・・御家人を組織して統制する機関で、トップには東国御家人の

        和田義盛という人が任命された

   ・政所・・一般政務や財政事務を担当する機関で、トップには貴族出身の

        大江広元という人が任命された

   ・問注所・・裁判の事務を担当する機関で、トップには貴族出身の三善康信という人が

         任命された

   ※それ以外に、京都から招いた下級貴族を中心とする側近が源頼朝を補佐した

 

 

  →地方には、守護、地頭などが置かれた

   

   ・守護について

    →・守護は基本的に東国出身の有力な御家人が任命されて、原則として

      各国に一人ずつ置かれた

     ・守護が国内の御家人をコントロールして、普段は治安の維持と

      警察権の行使を行った

     ・戦いの時には、守護が国内の武士をコントロールした

     ・守護が在庁官人を支配した

     ・守護が東国の国衙の行政に関する事務を引き継いで、

      守護が地方の行政官としての役割を果たした

     ・大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕)

      という職務を行った

      ※京都大番役・・様々な国の御家人に、天皇や院の御所という場所を

              警護させる仕事のこと

     ・京都の守護は、後で六波羅探題という名前に変わり、西の方の御家人の指導をした

     ・九州には鎮西奉行という役職を置いて、鎮西奉行が九州の御家人を支配して

      太宰府の実権を握った

     

   ・地頭について

    →・地頭は御家人の中から任命された

     ・地頭には、年貢の徴収と納入、土地の管理、治安維持などの仕事があった

      ※地頭は、平氏の時にもあったが、給料が一定ではなかった

       →そこで、源頼朝は地頭を任命させたりやめさせたりする権利を

        国司や荘園領主から奪って、幕府が地頭の任命と罷免の権利を持つようになった

     ・今までの荘官だった人が頼朝によって、地頭に任命された人が多かった

     ・地頭が置かれた範囲は、平家没官領を中心とした謀反人の土地に限られていた

      ※平家没官領・・平家が倒された時に、朝廷(後白河法皇)が

              平家から奪った土地のこと

 

 

ポイント

・幕府のスタイルを押さえる

・守護、地頭の内容を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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