鎌倉幕府の誕生について② -幕府の政治スタイル-
鎌倉幕府の政治スタイルについて考えてみます
・幕府の政治スタイルについて
・幕府のスタイルは簡単で実用的だったと言われている
→中央機関には、侍所、政所、問注所などが置かれた
・侍所・・御家人を組織して統制する機関で、トップには東国御家人の
和田義盛という人が任命された
・政所・・一般政務や財政事務を担当する機関で、トップには貴族出身の
大江広元という人が任命された
・問注所・・裁判の事務を担当する機関で、トップには貴族出身の三善康信という人が
任命された
※それ以外に、京都から招いた下級貴族を中心とする側近が源頼朝を補佐した
→地方には、守護、地頭などが置かれた
・守護について
→・守護は基本的に東国出身の有力な御家人が任命されて、原則として
各国に一人ずつ置かれた
・守護が国内の御家人をコントロールして、普段は治安の維持と
警察権の行使を行った
・戦いの時には、守護が国内の武士をコントロールした
・守護が在庁官人を支配した
・守護が東国の国衙の行政に関する事務を引き継いで、
守護が地方の行政官としての役割を果たした
・大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕)
という職務を行った
※京都大番役・・様々な国の御家人に、天皇や院の御所という場所を
警護させる仕事のこと
・京都の守護は、後で六波羅探題という名前に変わり、西の方の御家人の指導をした
・九州には鎮西奉行という役職を置いて、鎮西奉行が九州の御家人を支配して
太宰府の実権を握った
・地頭について
→・地頭は御家人の中から任命された
・地頭には、年貢の徴収と納入、土地の管理、治安維持などの仕事があった
※地頭は、平氏の時にもあったが、給料が一定ではなかった
→そこで、源頼朝は地頭を任命させたりやめさせたりする権利を
国司や荘園領主から奪って、幕府が地頭の任命と罷免の権利を持つようになった
・今までの荘官だった人が頼朝によって、地頭に任命された人が多かった
・地頭が置かれた範囲は、平家没官領を中心とした謀反人の土地に限られていた
※平家没官領・・平家が倒された時に、朝廷(後白河法皇)が
平家から奪った土地のこと
ポイント
・幕府のスタイルを押さえる
・守護、地頭の内容を押さえる
このあたりが今回のポイントです