蒙古襲来について
蒙古襲来について考えてみます
・蒙古襲来の流れについて
※前提として、鎌倉幕府の時も日本と宋との間での正式な国交は行われなかった
ということがある
→しかし、平氏政権の積極的な交流があったので、鎌倉時代の個人的な貿易や商人の
往復などは盛んに行われた
=日本が、宋を中心とした東アジアの交流圏の中に組み込まれていった
→この時に、蒙古襲来という出来事が起きた
・13世紀の初めに、モンゴル(蒙古)高原にチンギス=ハーンという人が出てきた
→チンギス=ハーンは、モンゴル民族を統一して、中央アジアから南ロシアまでの
征服に成功した
・その後、チンギス=ハーンの後継者は以下のようなことを行った
→・ヨーロッパへの遠征を行った
・女真人が作った金という国を倒した
・ユーラシア大陸の東西にかかる大帝国を作った
・さらにその後、チンギス=ハーンの孫であるフビライ=ハーンが、
中国を支配するために都を大都(北京)に移して、国名を元にした
→その時に、フビライ=ハーンは高麗を全面的に従わせたり、
日本に対して元への貢物を強要したりしてきた
・幕府の執権だった北条時宗という人が、元への貢物を拒否した
→そこで、日本の拒否に対して怒った元は、約3万の兵隊で、
1274年に対馬や壱岐という場所を攻めて、兵隊が九州北部の博多湾に上陸した
→兵隊を以前から警戒していた幕府は、九州地方に土地を持っている御家人を動かして
元の兵隊に対抗した
=この時の元と日本との争いを、文永の役と言う
※文永の役の時の様子について
・元軍は、集団戦や「てつはう」などの優れた兵器を使って勝負してきた
・日本軍は、一騎打ち戦が基本の対戦スタイルだったので、日本軍はかなり苦戦した
→しかし実際は、元軍も損が大きかったため、偶然来た暴風雨が原因で
元軍は撤退した
・文永の役の後、日本の幕府は、元軍がもう一度攻めてくることを懸念して、
異国警固番役の強化、防塁の構築などを行った
※・異国警固番役・・博多湾など、九州北部を御家人に警備させる軍役のこと
・防塁・・敵を防ぐための砦のこと
※異国警固番役は九州の御家人が行ったが、防塁の構築は土地所有者も行った
・元は南宋を倒した後に、何度か日本の征服を目指して、1281年に約14万の大軍で
九州北部に来た
→元の博多湾への上陸を日本が防いでいる時に、暴風雨が起きて元が大損害を受けたので
元がまた撤退した
=この戦いのことを弘安の役と言う
=文永の役と弘安の役の2回の元軍の日本への攻撃をまとめて、蒙古襲来(元寇)と言う
※2回の蒙古襲来に失敗した大きな理由
・元に倒された高麗や南宋の人々が日本への攻撃に抵抗した
・幕府の指導によって、九州北部の武士がよく戦った
・暴風雨があった
ポイント
・蒙古襲来の流れについておさえる
このあたりが今回のポイントです