蒙古襲来について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/22 03:36      
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蒙古襲来について考えてみます

 

 

・蒙古襲来の流れについて

 

 

 ※前提として、鎌倉幕府の時も日本と宋との間での正式な国交は行われなかった

  ということがある

  →しかし、平氏政権の積極的な交流があったので、鎌倉時代の個人的な貿易や商人の

   往復などは盛んに行われた

   =日本が、宋を中心とした東アジアの交流圏の中に組み込まれていった

    →この時に、蒙古襲来という出来事が起きた

 

 

 ・13世紀の初めに、モンゴル(蒙古)高原にチンギス=ハーンという人が出てきた

  →チンギス=ハーンは、モンゴル民族を統一して、中央アジアから南ロシアまでの

   征服に成功した

 

 

 ・その後、チンギス=ハーンの後継者は以下のようなことを行った

  →・ヨーロッパへの遠征を行った

   ・女真人が作った金という国を倒した

   ・ユーラシア大陸の東西にかかる大帝国を作った

 

 

 ・さらにその後、チンギス=ハーンの孫であるフビライ=ハーンが、

  中国を支配するために都を大都(北京)に移して、国名を元にした

  →その時に、フビライ=ハーンは高麗を全面的に従わせたり、

   日本に対して元への貢物を強要したりしてきた

 

 

 ・幕府の執権だった北条時宗という人が、元への貢物を拒否した

  →そこで、日本の拒否に対して怒った元は、約3万の兵隊で、

   1274年に対馬や壱岐という場所を攻めて、兵隊が九州北部の博多湾に上陸した

 

  →兵隊を以前から警戒していた幕府は、九州地方に土地を持っている御家人を動かして

   元の兵隊に対抗した

   =この時の元と日本との争いを、文永の役と言う

 

  ※文永の役の時の様子について

   ・元軍は、集団戦や「てつはう」などの優れた兵器を使って勝負してきた

   ・日本軍は、一騎打ち戦が基本の対戦スタイルだったので、日本軍はかなり苦戦した

    →しかし実際は、元軍も損が大きかったため、偶然来た暴風雨が原因で

     元軍は撤退した

 

  

 ・文永の役の後、日本の幕府は、元軍がもう一度攻めてくることを懸念して、

  異国警固番役の強化、防塁の構築などを行った

  ※・異国警固番役・・博多湾など、九州北部を御家人に警備させる軍役のこと

   ・防塁・・敵を防ぐための砦のこと

    ※異国警固番役は九州の御家人が行ったが、防塁の構築は土地所有者も行った

 

 

 ・元は南宋を倒した後に、何度か日本の征服を目指して、1281年に約14万の大軍で

  九州北部に来た

  →元の博多湾への上陸を日本が防いでいる時に、暴風雨が起きて元が大損害を受けたので

   元がまた撤退した

   =この戦いのことを弘安の役と言う

 

 =文永の役と弘安の役の2回の元軍の日本への攻撃をまとめて、蒙古襲来(元寇)と言う

 

  ※2回の蒙古襲来に失敗した大きな理由

   ・元に倒された高麗や南宋の人々が日本への攻撃に抵抗した

   ・幕府の指導によって、九州北部の武士がよく戦った

   ・暴風雨があった

 

 

 

ポイント

・蒙古襲来の流れについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです



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