鎌倉幕府の滅亡について
鎌倉幕府が滅亡する流れを考えてみます
・鎌倉幕府が倒れるまでの流れについて
・後嵯峨天皇という人が亡くなった後に、皇室が、後深草天皇の影響を受けた持明院統と、
亀山天皇の影響を受けた大覚寺統の2つの系統に分かれた
→2つの系統は、皇室の荘園、皇位の継承、院政の権利などを得るために、
争うようになった
※さらに、お互いの系統が鎌倉幕府に近づいて、自分達を有利な地位に
持って行こうとした
→上のような流れを受けて、鎌倉幕府は何度か調停を行った
=そのため、2つの系統が交互に皇位につく、という方式を取ることになった
=この方式のことを両統迭立と言う
→この流れの状況の中で、大覚寺統から即位した後醍醐天皇という人が
親政(天皇が自分で政治を行うこと)を始めた
=後醍醐天皇は、天皇の地位を安定させようとして、天皇の権限を強化していった
→一方で、当時の幕府は、執権だった北条高時と内管領だった長崎高資という2人の人が
権力を握っていた
=そのため、得宗専制政治に対して、御家人の怒りが高まってきていた
・このような状況の中、幕府が両統迭立を薦めることに対して、天皇は不満を抱いていたため
天皇が幕府を倒す計画を考え始めた
※しかし、1324年に、幕府を倒す計画が幕府にもれてしまい、失敗に終わった
=この出来事を、正中の変と言う
※さらに、1331年に、挙兵の計画を作って実行しようとしたが、失敗に終わった
=この出来事を、元弘の変と言う
→この2回の失敗によって、後醍醐天皇は隠岐という場所に流された
=その代わり、幕府の推薦によって、持明院統から光厳天皇という人が即位した
・その後、後醍醐天皇の皇子だった護良親王や楠木正成などと呼ばれる人達が
悪党などのような、幕府に反発する人達を集めて、幕府の軍と戦った
※その間に、後醍醐天皇が隠岐から抜け出して、幕府を倒すように呼びかけを行った
→その結果、幕府を倒そうとして動き出す人が増えてきた
※その状況の中、大きな2つの出来事が起きた
・幕府の軍の指揮官として、畿内に派遣された有力な御家人だった
足利高氏(のちの尊氏)という人が幕府に反抗して、六波羅探題を倒した
・関東で挙兵した新田義貞という人が、鎌倉を攻めて得宗の北条高時と
その後の代を倒した
→この2つが後押しをして、結果的に1333年に鎌倉幕府が倒れた
ポイント
・鎌倉幕府の滅亡についておさえる
このあたりが今回のポイントです