荘園と国司について① -国司の地方の支配-
荘園について考えてみます
・国司の地方の支配について
※10世紀の初めは、律令体制が崩れてきていた時代だと言われている
→そこで政府は、以下のようなことを行って、律令を立て直すことを目指した
・902年に延喜の荘園整理令という法律を作り、違法な土地の所有を禁止した
・班田の推奨をすることを行った
※しかし、戸籍や計帳、班田収受の機能がダメになってしまっていたので、
租・調・庸で国家の財政を維持することが出来なくなってしまった
→その状況が分かるものとして、以下のようなものがある
・阿波国の戸籍は、男が圧倒的に少ない状態で登録されていた
=調や庸を負担する男性の数を減らそうとする狙いがあったと考えられる
・三善清行という人が醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」に、
当時の混乱した様子が書かれている
→このような状況があったので、中央政府が以下のような行動を取った
・国司に、一定の額の税を納めることを義務とさせた
・その代わり、国司に自分の担当する国の統治を任せる、という方針を取ることにした
→以上のような流れから、国司や国衙の役割が大きくなった
※しかし、実務の仕事を国司が担当する分、郡家や郡衙の役割が小さくなっていった
・国司について
・その国の国司の中でもトップに立つ人は、受領と呼ばれるようになり、
政府に税を納めるための代行人のようになった
※受領の中には、自分の立場を使って、大量の利益を得ようとする人が多かったので、
郡司や有力農民などに訴えられることが時々あった
→受領の当時の様子について描かれたもので代表的なものに、以下のようなものがある
・藤原元命という人が「尾張国郡司百姓等解」によって訴えられた、ということがある
・藤原陳忠という人が述べたことについて書いてある「今昔物語集」が有名
・この時代には、受領の国司が成功や重任を行うようになった
※・成功・・国司が自分のお金で朝廷の儀式や寺を作ることなどを行う代わりに、
中央の官職に任命してもらうこと
・重任・・国司が自分のお金で朝廷の儀式や寺を作ることなどを行う代わりに、
収入の多い官職に再任してもらうこと
※受領以外の国司は、実務から排除されるようになり、遙任が盛んになった
・遙任・・赴任しないで、国司としての収入だけを受け取ること
・受領は、田堵と呼ばれる有力農民に、一定の期間田地の耕作を任せ、
官物と臨時雑役を課すようになった
→田堵の中には、国司と手を組んで大規模な経営を行った田堵が出てくるようになった
=このような田堵を、大名田堵と言う
※・官物・・租、調、庸の系統の税のこと
・臨時雑役・・雑徭の系統の税のこと
・課税の対象になる田地は、名という単位に分けられ、それぞれの名に負名という
請負人がつけられることになった
→以上のような流れによって、戸籍上の成人男性に課税する(調、庸など)スタイルから
土地を使って受領が負名から徴税するスタイルに変わった
※さらに、11世紀後半には、受領は交代のとき以外は自分の担当する国に行かなくなった
→その代わり、目代という国司の代理人を派遣して、在庁官人を使うことで
政治を行うようになった
・在庁官人・・現地で採用した下級の役人のこと
ポイント
・国司がどのように地方を支配したかを押さえる
・国司と荘園についてを押さえる
このあたりが今回のポイントです
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