院政について① ―院政のスタート―
院政について考えてみます
・院政が始まるまでの流れについて
・後三条天皇の後に、白河天皇という人が政治を行うようになった
・1068年に、白河天皇はまだ小さかった堀河天皇という人に位を譲った
→そこで、白河天皇は自分を上皇(院)にして、院庁という役職を作った
→白河上皇は、天皇を補佐しながら、政治の実権を握るという、政治のスタイルを作った
=このような政治のことを、院政と言う
※・院は、元々は上皇の家のことだったが、後に上皇のことを院というようになった
・天皇の后妃や娘が上皇と同じような待遇を与えられた場合を、女院と言う
・白河上皇は、荘園整理を行うことに賛成の立場を取る国司(受領)を、
白河上皇を支持する勢力として取りこみつつ、院の権力を強化していったので、
堀河天皇の死後に、本格的な院政を始めた
※院の権力の強化のために、白河上皇が行ったこと
・北面の武士(院司という院庁の職員の一つで、院の北面で警護する
武士のこと)を設置した
・平氏や源氏の武士を側近にした
・院政は、法律や慣例などにこだわらないで、上皇が政治の実権を専門的に使うようになった
※そのため、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、というように、100年近く院政が続いた
※摂関家は、勢力が衰退していたので、院に近づくことで、勢力を取り戻そうとした
・院政では、院庁下文や院宣が国の政治において権力を持つようになった
※・院庁下文・・院庁から出される文書のこと
・院宣・・上皇の命令を伝える文書のこと
・3人の上皇は、仏教を推していたので、出家して法皇になった
→そこで、六勝寺や仏像などを作って、法会という催しを行うようになり、
何回か熊野詣や高野詣などを行った
※六勝寺・・院政の時期に天皇家によって作られた「勝」のつく6つの寺のこと
例:堀河天皇の尊勝寺、白河天皇の法勝寺 など
熊野詣、高野詣・・熊野や高野に参詣すること
・京都の郊外である白河や鳥羽に、離宮(皇室の別宮)を作った
※離宮の費用を稼ぐために、成功などを始めとした売位、売官などが盛んになった
=そのため、政治が乱れることになってしまった
ポイント
・院政が始まるまでの流れについて押さえる
このあたりが今回のポイントです