荘園の変化について -延久の荘園整理令と荘園公領制-
荘園の変化について、延久の荘園整理令と荘園公領制を中心に考えてみます
・延久の荘園整理令と荘園公領制の流れについて
※藤原頼道の娘に皇子が生まれなかった
→そこで、後三条天皇という人が天皇についた
・後三条天皇は、大江匡房などの学問の知識に優れた人材を使ったりすることで、
徹底的に日本の政治の改革を行った
※後三条天皇は、日本の政治の改革を行うなど、個性がすごく強かったと言われている
・後三条天皇は、荘園が増えたことによって、公領(国衙領)という土地を
圧迫していると考えた
→そこで、1069年に延久の荘園整理令という法律を作った
※整理令については、国司に任せているので不徹底だったと言われている
※後三条天皇は、延久の荘園整理令を出した時に、升の大きさを一定にした
=この時の升を宣旨枡と言う
・延久の荘園整理令は、中央政府に記録荘園券契所という施設を作った
→その施設で、荘園の所有者から証拠となる書類(券契)と、
国司の報告とを合わせて審査した
=その中で、年代が新しい、書類に不備がある、などのような、
基準に適さない荘園を停止した
※摂関家の荘園は例外ではなかったため、延久の荘園整理令はかなりの成果があった
と言われている
→延久の荘園整理令によって、貴族や寺社が持つ荘園と、国司が持つ公領(国衙領)とが
はっきり分かれるようになった
・各地には、貴族や大寺社が支配する荘園が増えた
※しかし、国司が持っている公領もまだまだ多く残っていた
→そこで、国司はその場所で力を伸ばしてきた豪族や開発領主に対して、
国内を郡・郷・保などと呼ばれる新しい単位に組み替え、
豪族や開発領主を郡司、郷司、保司に任命して税金の徴収を行わせた
→国衙には、田所や税所などと呼ばれる行政組織を作った
→国司が派遣した目代に従う形で在庁官人が実際に事務を行うようになった
・在庁官人は、公領を在庁官人の共同の領地のように管理したり、
荘園領主に渡したり(寄進)した
→そのため、今までの律令制度のような国・郡・里のシステムが、
荘園公領制に変わっていった
※荘園公領制・・荘、郡、郷などが同じ立場で並ぶ荘園と、公領で構成される体制のこと
・整備された荘園や公領は、耕地のほとんどが名と呼ばれた
→名は田堵などの有力な農民に名が割り当てられることになった
※田堵などの有力な農民は、名に対する権力が強くなっていったので、
名主と呼ばれるようになった
→名主は、名の一部を隷属農民や作人などと呼ばれる農民に耕作させながら、
年貢・公事・夫役などを開発領主などにおさめていたため、
名主が農民の中心的な存在になった
※年貢・・米や絹布などで納める
公事・・糸、炭、野菜などの手工業品や特産物を納める
夫役・・労役を提供する
→これらを、名主が自分より下の農民に耕作させ、名主が徴収して領主に納めた
ポイント
・後三条天皇と延久の荘園整理令を押さえる
・荘園公領制と名主について押さえる
このあたりが今回のポイントです