荘園と国司について② -荘園の仕組み-
荘園の仕組みについて考えてみます
・荘園について
※荘園とは・・貴族や寺社が私的に持っていた土地のこと
・8~9世紀あたりに初期荘園という荘園が出てきた
※しかし、初期荘園は国司や郡司の制度に依存して経営されていたため、
10世紀までにほとんどの初期荘園が衰退していった
※初期荘園は、貴族や寺社が自分で開墾したり、墾田を買収したりすることで成り立っていた
=そのため、墾田地形荘園と呼ばれることがある
・10世紀後半からは、国衙に臨時雑役などを免除されることで、
一定の土地を開発する人が増えてきた
=このような人達は、11世紀に開発領主と呼ばれるようになった
→開発領主は、自分が開発した土地に対しての支配権を強くしていった
・開発領主のほとんどは、在庁官人になって行政の道に進んだ
※中には、自分の土地にかかる税を逃れようとして、土地を中央政府で
権力のある人に渡して(寄進して)その土地については、
権力者を領主にしてしまうというような荘園を持つ人が出てくるようになった
・渡された荘園の領主は領家と呼ばれるようになった
→領家が、渡された土地をさらに上の階級の人に渡すことがあった
=さらに上の階級で領主になった人は、本家と呼ばれるようになった
※領家や本家の中で、実際に支配していた人を本所と呼んだ
・開発領主は荘官になって、自分の土地の個人的な支配をより強めていった
※荘官・・荘園の中の年貢の取り立てや治安維持などを行った職業のこと
→以上のように寄進が行われている荘園を、寄進地系荘園と言う
・以上のような荘園の中には、貴族や寺社の権力を利用して、中央政府に
不輸を認めてもらう荘園が増えてきた
※不輸・・政府から官物や臨時雑役の免除を認めてもらうこと
・国司(受領)によって、その国司が任期の時だけ不輸が認められた荘園が出てきた
→中央政府に不輸が認めてもらえた荘園を官省符荘と言い、国司に不輸を認めて
もらえた荘園を国免荘と言う
※官省符荘は、政府が出した太政官符や民部省符というものによって認められていた
・その後、不輸の対象の土地や範囲について、開発領主と国司が対立するようになった
→そこで、開発領主は領家や本家の権力を使って、不入の権利を得る荘園が増えてきた
※不入・・検田使などのような、国司に派遣されてきた人の立ち入りを禁止すること
検田使・・国の中の耕作の状況を調べて、官物や臨時雑役の負担の分量を
決めるために国司が派遣した役人のこと
=不輸や不入の権利が広がっていったので、荘園での個人的な支配が
どんどん大きくなっていった
※この動きは、寄進地系荘園が広がることで、さらに進んだと言われている
※この動きの時に、国司は荘園をコントロールしようと考え始めたため、
国司と荘園領主がより対立することになった
ポイント
・国司がどのように地方を支配したかを押さえる
・国司と荘園についてを押さえる
このあたりが今回のポイントです