平安時代初期の地方や貴族の変化について
平安時代初期の地方や貴族の変化について考えてみます
・地方と貴族の変化について
・8世紀の後半から9世紀に、農民の間で貧富の差が拡大したが、裕福な農民も貧乏な農民も
様々な方法で、負担から逃げようとした
→そのため、戸籍には偽籍が増え、班田収授の効果が弱くなった
※偽籍・・労役、租税、兵役を負担する男子の登録を少なくするという、
ウソの記載のこと
→上のようなことがあったため、桓武天皇は以下のような対策を行った
・班田収授を活発にさせるために、6年周期だったものを、12年周期にした
・公出挙の利息の利率を5割から3割にした
・雑徭の期間を60日から30日にした
→このように、農民の負担を軽くしたものの、効果は無かった
・負担がダメになっていき、国家の財政の維持が難しくなってきた
→そこで、政府は以下のようなことを行った
・国司や郡司が租税を徴収する時に不正したり、徴収していなかったりする場合を
取り締まることにした
・823年に太宰府で公営田を、879年に官田(官の田んぼのこと)を作って、
財源を確保しようとした
※公営田で農民に無給の強制労働を行わせることにして、
公営田で収穫された物を全て国のものとした
→しかし、時が流れるにつれて、スタイルが変わってきた
・中央の各官庁が財源となる諸司田(役所の田)を持った
・官人が墾田を自分で集めた
→そのため、中央の各官庁や官人は国家財政に頼る必要性が弱くなってきた
・天皇が勅旨田(天皇の命令で、公費によって開墾された土地)を持つようになった
・優秀な皇族に、天皇から賜田(天皇が与えてくれた田)が与えられた
・天皇と親しい関係にある人(少数の皇族や貴族)は院宮王臣家と呼ばれ、
自分達で土地を集めて国家財政にダメージを与えつつ、自分達の権力を高めていった
※下級の官人や有力な農民は、有利な立場に立つために自分から進んで
院宮王臣家の下につくようになった
ポイント
・地方と貴族の変化についてを押さえる
このあたりが今回のポイントです