保元・平治の乱について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/22 02:15      
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保元・平治の乱について考えてみます

 

 

・保元・平治の乱までの流れについて

 

 

 ・源氏が、東国で勢力を拡大していった

  →すると、東国武士団の中から、源義家に土地を寄進して保護を求める人が増えてきた

   =この動きに焦って、朝廷が急いで寄進を禁止するようになった

 

 ・義家の後に、源氏一族で内紛が起きたため、源氏の勢力が少し衰えた

  →そこで、伊勢平氏という氏族が、院との関係を結んだため、

   源氏に代わって発展していった

   ※伊勢平氏・・桓武平氏の中で、伊勢や伊賀を中心にしていた氏族のこと

 

 ※伊勢平氏の中でも、平正盛、平忠盛という人が活躍した

  →平正盛、平忠盛が行った例

   ・源義家の子どもで、出雲で反乱を起こした源義親という人を倒した

   ・平正盛の子どもの平忠盛という人は、瀬戸内海の海賊を落ち着かせたことで、

    鳥羽上皇に信頼されるようになった

   ・平忠盛は、武士として、院近臣として大切に用いられるようになった

 

 →以上のような流れを受けて、平氏の力をさらに強めた人が、

  平忠盛の子どもの平清盛という人だった

 

 

 

 ・1156年に、鳥羽法皇が死んでしまった後に、皇位継承について法皇側と

  崇徳上皇という人が対立した

  

  ・崇徳上皇側

   →・左大臣の藤原頼長と関係を持って、源為義や平忠正などの武士を集めた

     ※藤原頼長は、兄で関白の藤原忠通と、摂関家の継承について争っていた

 

  ・法皇側

   →・鳥羽法皇の立場を引き継いだ後白河天皇が、藤原忠通や近臣の藤原通憲の意見によって、

     平清盛や源義朝などの武士を集めた

 

  →結果は、法皇側が崇徳天皇側を攻撃して倒し、法皇側が勝利したため、

   崇徳天皇は讃岐に流された

   =この時の争いのことを、保元の乱と言う

  

  →この結果によって、後白河上皇が院政を始めた

 

 

 ・保元の乱の後、後白河上皇の近臣達が対立するようになった

  →そこで、1159年に平清盛と関係を持っている藤原通憲に反感を抱いた

   近臣の一人である藤原信頼という人が、源義朝と関係を結んで兵を出した

   =平清盛・藤原通憲と藤原信頼・源義朝の争いという関係になった

  

  →対立の流れ

   ・最初に藤原通憲が自殺をした

   ・その後、平清盛の側が不利なったかと思われた

   ・しかし、平清盛の武力が強すぎたために、平清盛によって

    藤原信頼や源義朝が倒された

   ・そのため、源義朝の子どもである源頼朝が伊豆に流されることになった

 

  =この争いのことを、平治の乱と言う

 

 

  →2つの乱によって、以下のようなことが明らかになった

   ・争いは武士の実力で解決されることが明らかになった

   ・平清盛の地位と権力が、急速に高まっていった  etc

 

 

 

ポイント

・保元の乱と平治の乱の流れとそれまでの動きを押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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