源平の争乱・源平合戦について
源平の争乱について考えてみます
・源平の争乱について
・鹿ケ谷の陰謀の後、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿という場所に閉じ込めて、
1180年に安徳天皇という人を即位させた
→この動きに対して、地方の武士団、中央の貴族や大寺院などの一部で、
平氏が独裁的な政治を行っていると考えて、不満を持つ人が出てきた
→そこで、後白河法皇の皇子である以仁王という人と、
畿内にいた源氏の源頼政という人が
平氏を倒すことを考えた
※そのため、挙兵を呼びかける令旨(王の命令)が様々な国の武士に伝えられた
→令旨によって、以下のようなことが起きた
・興福寺や園城寺(三井寺)などの僧兵が動いた
・伊豆に流されていた源頼朝や信濃にいた源義仲という人達などを始めとして、
様々な場所で武士団が挙兵した
→この動きによって、以仁王と源頼政を中心とした平氏を倒す動きが
全国レベルにまで広がって最終的に5年間の争乱が続いた
=この争乱のことを、治承・寿永の乱と言う
(別名を源平合戦と言われることもある)
・上のような動きがあり、平氏は都を福原京(現在の神戸市)に移した
※大輪田泊がある、などの理由で福原京に移したが、貴族などの反対があって、
半年で京都に戻った
→京都に戻して、畿内の支配を強化することで、治承・寿永の乱などの動きに
対抗しようとした
※しかし、平清盛が突然死んでしまったこと、
養和の飢饉という飢饉が畿内を中心とした西の方で起きてしまったこと、
などが影響して平氏の基盤が弱くなった
→そのため、1183年に北陸で平氏が源義仲に負けて、
平氏が西側の地方に逃げた(都落ちをした)
→その後、源頼朝の命令を源範頼と源義経の軍が受けて、
源義仲を倒すという出来事が起きた
→結果的に、摂津での一ノ谷の戦い、讃岐での屋島の戦いを行い、
最終的に1185年の、長門での壇ノ浦の戦いによって、平氏を完全に倒した
※一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなどをまとめて、
治承・寿永の乱と言う
・治承・寿永の乱に大きな影響を与えたのは、地方の武士団だったと言われている
※武士団は、国司や荘園領主に対抗することで土地の支配権の強化や拡大をしたかったので
その目標が実現するための政治の仕組みが必要だったから、
影響を与えるほどの活躍をしたと考えられている
ポイント
・源平の争乱の流れと内容を押さえる
このあたりが今回のポイントです