摂関政治と国際関係の動きについて

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投稿者:       投稿日時:2013/10/22 01:01      
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摂関政治と国際関係の動きについて考えてみます

 

 

・摂関政治について

 

 ・摂関政治とは・・摂政や関白が何回も任命され、摂政や関白が政権を握り続けた政治のこと

          ※摂政や関白を出す家柄を、摂関家と言う

 

 ・摂政と関白は藤原氏の中でも最高の位になり、藤原氏の「氏長者」という役割も

  担うようになった

  =摂政と関白が、氏全体を統率して、ものすごい権力を握るようになった

 

 →以上のように、摂政と関白にはすごい権力があるため、摂政と関白の地位を目指して

  争いが起きるようになった

  =この争いは、藤原道長の時におさまったと言われている

   ※当時の争いの代表的なものに、兼道と兼家の兄弟の争い、

    道長と伊周の叔父と甥の争いが有名だと言われている

 

  

 ・藤原道長は、自分の4人の娘を皇后や皇太子妃として、

  約30年間朝廷で権力を握っていた

 

 ・当時は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代が天皇に就いていた

  ※3代の天皇は、藤原道長の外孫だったため、藤原道長のあとを継いだ藤原頼道は、

   3代の天皇の時に摂政と関白を行った

   =結果的に摂関家の勢力は安定していた

 

 

 

 

・当時の貴族社会について

 

 ・当時の貴族の社会は、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、

  新居を作って住むのが一般的だった

  ※さらに、夫は妻の父にかばってもらったり、育児を母が行ったりしていた

   =母方の縁が重視されていた

 

 ・摂政と関白は、最も近い外戚(母方の親戚)として天皇に近づくと同時に、

  天皇の権威を利用して大きな権力を握った

   ※特に、摂政と関白は役人を任命したり、罷免したりする権力があったので、

    中級と下級の貴族は、摂関家や摂関家と結びつきの強い上級貴族に従うようになった

    →そのため、昇進する順番や限度が、家柄や外戚の関係によって

     ほとんど決まってしまうようになった

 

 ・当時の中級と下級の貴族は、摂関家と結びつくようになって、

  経済的に有利な地位だった国司になることを目指した

 

 ・当時の政治は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通して、中央と地方の役人を指揮して、

  全国を統一的に支配する形になっていた

  →当時の政治や事務は、太政官での公卿の会議によって審議が行われ、

   審議の結果が天皇が摂政の許可を得て太政官符や宣旨と呼ばれる文書で

   命令や伝達された

 

  →しかし、段々と先例や儀式を重視する形式を取るようになり、

   宮廷で年中行事が重視されていった

   ※年中行事には、賀茂祭、七夕、叙位、徐目と呼ばれるものなどがある   

 

  →一方で、地方の政治は国司が行うようになり、朝廷が国司の政治に関して

   積極的な政策を行うようになった

 

 

 

  

・当時の国際関係について

 

 ・日本は、894年に菅原道真が、遣唐使の派遣を中止した

  ※唐は、8世紀の内乱(安史の乱)が起きたときから、衰退し続けていたため、

   多くの危険をおかしてまで公的な交渉をする必要がない、

   という判断を行ったため派遣を中止した

 

 ・907年に唐が滅び、宋という国が新しく出来た

 

 ・日本は、宋と交流をしようとはしなかったが、九州の博多に宋の商人が来たことで、

  書籍、工芸品、薬品などが輸入された

  ※朝廷の許可をもらって宋に行く僧もいて、活発な交流をしていた僧がいた

 

 ・中国東北部では、渤海が遼という国に滅ぼされた

  ※遼に支配されていた沿海州地方という地方に住む、刀伊の女真人という人が、

   金という国を作った

 

 ・朝鮮半島に、10世紀のころに高麗という国が出来て、新羅を滅ぼしたため、

  朝鮮半島を高麗が統一した

 

 ※日本は、遼や高麗などとも国交を行おうとしなかった

 

 

 

ポイント

・摂関政治の概要を押さえる

・当時の貴族の動きを押さえる

・国際関係を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 



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