平氏政権について
平氏政権について考えてみます
・平氏政権について
・平治の乱の後に、平清盛が後白河上皇を武力で支えると同時に蓮華王院という
施設を作るなどの奉仕をした
=この結果、平清盛が太政大臣になった
※さらに、平清盛の子どもである、平重盛などの一族も
どんどん高い官職や高い位になった
→そのため、平氏の威力に並ぶような力を持つ人がいなくなった
=結果的に平氏が全盛期を迎えることになった
※平氏が全盛期を迎えた背景には、各地で武士団が成長したことが
関係していると言われている
・平清盛は、武士団の一部を地頭に任命して、畿内から瀬戸内海、九州までのような
西国の範囲の武士を家人にすることができるようになった
※・地頭・・荘園や公領の現地の支配者のこと
・家人・・武士の社会で、上の人に従う人のこと
※鎌倉時代は御家人と言われた
・平清盛は、娘である徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮にした
→この動きによって、高倉天皇の子どもである安徳天皇が即位したときに、
平清盛が外戚になった
・平氏の経済的な基盤は、全盛期は日本全国の約半分の知行国や約500の荘園だった
・平氏政権は、摂関家にかなり似ていたため、武士にも関わらず貴族のような性格が強かった
・平氏は、平忠盛になってから、日宋貿易を積極的に行うようになった
→・11世紀後半から、日本と高麗や宋との間で船の往復が活発になった
※12世紀には、北方の女真人という人達が作った金という国によって、
宋が南宋になった
・南宋になってからは、より一層積極的に貿易を行うようになった
→・貿易の活発化に合わせて、平清盛は摂津の大輪田泊(現在の神戸市)を修築したり、
瀬戸内海の航路の安全を維持したりした
=宋の商人を畿内へ招待して貿易をより活発したいと考えていた
※・日宋貿易の時は、日本は宋へ向けて、金、硫黄、木材、水銀、米、扇、
漆器、刀剣などを輸出した
・宋は日本へ向けて、宋銭、陶磁器、香料、書籍、薬品などを輸出した
※特に、香料と薬品は、東南アジア産のものだったと言われている
→平清盛の政策の結果、日宋貿易によって日本に入ってきた、
宋銭、書籍、珍しい宝などは日本の経済や文化に
大きな影響を与えたと言われている
※特に、貿易の利益は平氏政権の重要な経済の基盤になったと言われている
・平氏は、官職を独占しようと考えたため、支配を広げていった
→平氏の支配の時に、排除された昔の有力な人達から、強い反発が出るようになった
※特に、後白河法皇の近臣と平氏との対立が深かったと言われている
→そこで、1177年に藤原成親や僧の俊寛と呼ばれる人達が
京都郊外の鹿ケ谷という場所で平氏を倒すことを目指したものの、
平氏に倒されて失敗に終わる、という事件が起きた
=この事件のことを鹿ケ谷の陰謀と言う
→鹿ケ谷の陰謀の後、平清盛は以下のような行動をとった
・1179年に後白河法皇を鳥羽殿という場所に閉じ込めた
・関白以下の多くの貴族の官職を平清盛が奪って、処罰した
→この2つの強引な手段によって、国家の権力をほとんど自分のものにして、
政治をコントロールした
※上のような平清盛の行動は、平清盛が権力の独占を成功しかけたが、
この権力の独占への行動は院、貴族、寺社、源氏など、平氏に反対する勢力が
結束することを促す結果になった
=結果的に平氏が終了するのをはやめてしまうことになったと言われている
ポイント
・平氏政権の動きを押さえる
・日宋貿易を押さえる
このあたりが今回のポイントです