国風文化について -文学・宗教・貴族・美術-
国風文化について考えてみます
・国風文化の時の文学について
※日本は7世紀以降から、他の大陸からの文化(大陸文化)を受け入れてきていた
・日本は、9世紀後半から10世紀の間に、他の大陸との関係が変わってきたため、
大陸文化が弱くなっていった
→その代わり、貴族社会を中心として、日本の風習や風土などに合う形の文化が出てきた
=このような文化のことを国風文化と言い、10~11世紀の文化が
国風文化だったと言われている
※国風文化は、優雅で洗練された文化という特徴があったと言われている
・国風文化にできたものの特徴として、かな文字(平がなと片かな)というものがある
※・平がな・・万葉がなというかなの草書体という書体を簡単にしたもの
・片かな・・漢字の一部分を取ったもの
→平がなや片かなは、11世紀の初めに広く使われるようになった
=そのため、日本人特有の感情を文字で伝えることができるようになった
※どのような国文学がさかんになったのか
・最初に、和歌がさかんになった
→905年に紀貫之などによって、「古今和歌集」という最初の勅撰和歌集が編集された
※古今和歌集の歌の作風は、古今調と言われている
※「古今和歌集」から、「新古今和歌集」という歌集まで、合計8回編集された
=そのため、その8回の歌集をまとめて八代集という
・貴族が、重要な場所では昔と変わらず漢字だけで文章を書いていたが、
その文章が和風になっていたと言われている
※貴族は、10世紀以降に朝廷での儀式や行事が重視されるようになったため、
儀式や行事の様子を漢字を使って、日記に細かく書いていた
=その中でも、藤原道長の「御堂関白記」という日記は有名だと言われている
・かなは、和歌以外の重要な場所で使われなかったものの、日常で使われるようになった
→そのため、以下のようなかな文学の作品が出てくるようになった
・かな日記・・紀貫之という人が書いた「土佐日記」という作品が
最初のかな日記だと言われている
・かな物語・・歌物語の「伊勢物語」や、伝説を題材にした「竹取物語」など
・源氏物語・・中宮の彰子という人に仕えた、紫式部という人の作品
→宮廷の貴族の生活を題材にして書かれていると言われている
・枕草子・・皇后の定子という人に仕えた、清少納言という人の作品
→清少納言が宮廷での生活で体験したことを、
随筆のように書いたと言われている
※源氏物語と枕草子は、国文学の最高傑作だと言われている
・浄土信仰と宗教について
・当時(摂関時代)の仏教は、天台宗と真言宗の2つの宗が強力な勢いがあり、
貴族は、現世利益を欲しがっていたため、加持祈祷を行うことで、
2つの宗教と貴族が近づくようになった
※・現世利益・・神や仏からもらえる、この世での利益のこと
・加持祈祷・・神や仏が人々を助けてもらえるように、お祈りをすること
・神仏習合の考え方が広がり、本地垂迹説という考え方も出てきた
※・神仏習合・・仏と神を合わせてそれぞれの良いところを選び取る考え方のこと
・本地垂迹説・・仏が神という姿を借りてこの世に現れるという考え方のこと
※本地垂迹説によって、天照大神を大日如来とする考え方も出てきた
・御霊の信仰が広まったため、御霊会がさかんに行われるようになった
※・御霊会・・御霊信仰のためのお祭りのこと
・御霊信仰・・怨霊や疫神を祀ることで、疫病や飢饉などの災いから
逃れようとする信仰のこと
・現世の不安から逃げようとする考え方が生まれた
=その考え方に合っていたのが、浄土教という教派だったので、浄土教が流った
※浄土教・・阿弥陀仏を信仰して、来世で極楽浄土に行き、
そこで悟りを開いて苦しみが無くなるのを願う教えのこと
→10世紀の半ばに、空也という人が京の市という場所で説いた
→その後、源信(恵心僧都)という人が「往生要集」という本を作り、
念仏往生の教えを説明した
=この動きが結果的に、浄土教を広めることになった
・浄土教の信仰は、末法思想によって、より強くなっていった
※末法思想・・釈迦が死んだ後に、正法、像法、という世の中を通って、
末法の世の中が来るという考え方のこと
→当時災いが多かったため、その状況が仏教の考える末法のようだ、ということで
来世で救われたい人が増えた
→信仰に成功したと信じられた人の伝記を集めた本を、慶滋保胤という人が
「日本往生極楽記」という名前で作った
・国風文化の美術について
・寝殿造という家の造りになった
※寝殿造・・白木造、檜皮葺などの特徴を持つ家の造りのこと
・建物の内部は、以前は唐絵という絵が描かれていたが、
国風文化で大和絵という絵が描かれるようになった
※大和絵の代表的な人に、巨勢金岡という人がいる
・来迎図という絵が積極的に描かれるようになった
※来迎図・・極楽浄土に行こうとする人を迎えに行くために
仏が来る場面を表現した図のこと
・建物の中で日常的に使うものに、蒔絵や螺鈿の技術が用いられるようになった
※・蒔絵・・漆で絵を描いて、金や銀などの金属の粉を蒔きつける
漆器の技術のこと
・螺鈿・・貝殻の真珠光という部分を磨いて、様々な形に切り、
漆器に埋め込む技術のこと
・書道で、和様というスタイルが発達した
※当時、三跡(蹟)と呼ばれる書道に優れた人が出てきた
→三蹟は、小野道風、藤原佐里、藤原行成のことを指す
・藤原道長という人が、法成寺という寺を作った
・藤原頼道という人が、平等院鳳凰堂という建物を作った
→平等院鳳凰堂の本尊と呼ばれる部分には、定朝という人が作った阿弥陀如来像という像が
置かれている
※定朝は、寄木造という方法を完成させた
・寄木造・・仏像のパーツを何個かに分けて、別々に作り、
それを寄せ合わせて作る方法のこと
・貴族の生活について
・貴族の服について
・男性は、正装として束帯、束帯を簡単にしたものとして衣冠を用いていた
・女性は、女房装束(十二単)と呼ばれる服を用いていた
→これらの服は、日本風で絹が使われていた
・貴族の住宅と食事について
・寝殿造の家だった
・食事は基本的に質素で、獣肉が使われず、食事は1日2回が基本だった
・貴族の儀式について
・男性は元服、女性は裳着という儀式を行い、10~15歳くらいで
成人として扱われていた
※男性は官職をもらって、朝廷に仕えるようになった
・成人した貴族の多くは左京に住んでいて、京を離れて旅行するということが
あまりなかった
・貴族は、運命や吉凶を気にしていたため、祈祷で災いを避けて、福を呼ぶことに努力した
→日常の行動でも吉凶によって、多くの制限がかけられることがあった
※吉凶に関しては、中国から入ってきた陰陽五行説にもとづいた
陰陽道の影響が大きかった
→そのため、天気や暦も吉凶に関連すると考えられるようになり、
日によって行動が制限されることがあった
→さらに、いつもと違うことが起こると、吉凶を占って、物忌や方違を行ったりした
・物忌・・引きこもったり、行動を制限したりと、慎むこと
・方違・・凶の方角を避けて行動すること
→以上のように、吉凶を重視していたため、吉にならずに凶になった
時の悲しみが大きかった
=そのため、来世ではよりよい運命になろうと考え、
浄土教をさらに信仰するようになっていった
ポイント
・国風文化の概要を押さえる
・国風文化の文学を押さえる
・国風文化の浄土信仰を押さえる
・国風文化の美術を押さえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
わかりにくい