唐風文化と平安時代の仏教について -弘仁・貞観文化と密教の芸術-
唐風文化と密教の芸術について考えてみます
・弘仁・貞観文化について
・弘仁・貞観文化とは・・平安京に移ってから、9世紀末くらいまでの文化のこと
・弘仁・貞観文化の特徴
→・平安京で貴族の文化が盛んになった
・文章経国という考え方が広がった
※文章経国・・文芸を中心にして国家の勢いを盛んにさせることを
目指す考え方のこと
・宮廷で漢文学が発展した
→そのため、814年に「凌雲集」、818年に「文華秀麗集」、
827年に「経国集」という、3つの勅撰漢詩集というものが作られた
・天台宗と真言宗が広まって、密教がさかんになった
・弘仁・貞観文化の時に起きた出来事について
・嵯峨天皇が中国のスタイルを重視したため、唐風のスタイルを受け入れて
宮廷の儀式を整備した
・嵯峨天皇は、文学に優れている貴族を政治で使うなどのように、
文化の人を国家に参加させた
・貴族の教養として、漢詩文を作ることを重視したため、漢詩文が盛んになった
→そのため、貴族が漢字の文化に慣れて、上手になっていき、
漢字を自分達のものとして使えるようになった
※この動きは、今後出てくる国風文化という文化の土台になったと言われている
→漢詩文で有名な人は、嵯峨天皇、空海、菅原道真、小野篁という
人達などが知られている
※空海という人は、「文鏡秘府論」(漢詩文の作成の評論)や
「性霊集」(詩文集)などを作った
・大学での学問が重視されるようになった
→・儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道(文章道)が特に盛んになった
・貴族は、自分達の子弟を育成するために、大学別曹という施設を用意した
※大学別曹で有名なものとして、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、
在原氏の奨学院、橘氏の学館院などがある
・空海が綜芸種智院という施設を作り、庶民も勉強できる場所を提供した
・桓武天皇は仏教が政治に絡むことを嫌ったので、南都の大寺院というものを
平安京に移すことを嫌った
→代わりに、最澄や空海などの新しい仏教を採用した
※最澄と空海について
・最澄
→・天台宗を開いた
・新しい、独自の大乗戒壇という戒壇を作ることを目指した
→この目標は、南都の宗派から反対されたので、最澄は「顕戒論」
という本を書いて反論した
・比叡山で修学したため、比叡山延暦寺という寺が仏教教学の中心になった
・空海
→・「三教指帰」という本を書いて、仏教に集中した
※三教指帰・・儒教、道教、仏教の中で仏教が優位であることを
論じた本のこと
・長安で密教を学んだ
→その後、高野山に金剛峯寺という寺を建てて、真言宗を開いた
・空海が嵯峨天皇から教王護国寺という寺をもらい、その寺を
密教の根本の場所とした
→天台宗には、最澄の弟子の円仁・円珍によって、密教が取り入れられた
※円仁は延暦寺によって山門派と呼ばれ、円珍は園城寺によって寺門派と呼ばれた
→天台宗と真言宗は、両方とも国家や社会の安泰を祈った
※天台宗と真言宗は、加持祈祷によって災いをよけて、
幸せを追求するというスタンスだったので皇室や貴族などの支持を集めた
・加持祈祷・・病気や災難などを払うために行われる儀式のこと
・8世紀ころから、神仏習合の風潮が出てきて、平安時代以降にさらに広まっていった
※神仏習合・・日本に元々あった神の思想と、外から入ってきた仏の思想を
組み合わせる考え方のこと
・天台宗と真言宗が修験道の基本になった
※修験道・・日本に元々あった山岳信仰と密教が組み合わさって
出来た実践的な宗教のこと
・密教の芸術について
・天台宗と真言宗が盛んになってくると、密教芸術が新しく発展した
・密教芸術の建築について
・今までの形式にとらわれないような伽藍配置で建築が行われた
→代表的なものに、室生寺の金堂などがある
・密教芸術の彫刻について
・密教と関わりの深い、如意輪観音像や不動明王像などの仏像が作られた
→これらの仏像は一木造だったといわれている
※一木造・・仏像の頭と体の部分を一本の木を彫って作る方法のこと
・神仏習合が反映された
→代表的なものに、薬師寺僧形八幡神像や神宮皇后像などがある
・密教芸術の絵画について
・曼荼羅が発達した
※曼荼羅・・金剛界と胎蔵界を整然とした構図で図にしたもの
・密教芸術の書道について
・唐様の書が広がった
→当時の代表的な人に、嵯峨天皇、空海、橘逸勢という人達がいる
=この3人をまとめて、三筆と言われている
ポイント
・弘仁・貞観文化の特徴と、その当時の出来事を押さえる
・最澄と空海を押さえる
・密教の芸術を押さえる
このあたりが今回のポイントです