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	<title>アラエス &#187; 忠君愛国</title>
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	<item>
		<title>新体制運動と三国同盟について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1311</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1311#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 09:06:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[昭和時代・第二次世界大戦]]></category>
		<category><![CDATA[創氏改名]]></category>
		<category><![CDATA[南進]]></category>
		<category><![CDATA[国民学校]]></category>
		<category><![CDATA[大政翼賛会]]></category>
		<category><![CDATA[忠君愛国]]></category>
		<category><![CDATA[新体制運動]]></category>
		<category><![CDATA[日独伊三国同盟]]></category>
		<category><![CDATA[皇民化政策]]></category>
		<category><![CDATA[米内光政]]></category>
		<category><![CDATA[近衛文麿]]></category>

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		<description><![CDATA[新体制運動と三国同盟について考えてみます &#160; &#160; ・新体制運動と三国同盟について &#160; &#160; 　・１９４０年６月に、近衛文麿は枢密院の議長を降りて、新体制運動という運動の 　　トップに [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1311">新体制運動と三国同盟について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>新体制運動と三国同盟について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・新体制運動と三国同盟について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９４０年６月に、近衛文麿は枢密院の議長を降りて、新体制運動という運動の</p>
<p>　　トップに立った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※新体制運動とは・・</p>
<p>　　　→ナチ党やファシスト党を見習い、力のある組織を中心にして大きな政党を一つ作り</p>
<p>　　　　今までの政党政治を壊して一つの政党が指導することで、</p>
<p>　　　　全ての国民を戦争に協力させるという「革新」運動のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立憲政友会、立憲民政党、社会大衆党などの様々な政党や団体が積極的に、</p>
<p>　　または仕方なく解散して新体制運動への参加を決めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※この時に、軍部が近衛文麿が首相になることを期待していた</p>
<p>　　　→そのため、米内光政内閣を終了させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９４０年７月に第２次近衛文麿内閣が誕生した</p>
<p>　　→第２次近衛文麿内閣は内閣を誕生させた時に、</p>
<p>　　　近衛文麿、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣で話し合いをして、</p>
<p>　　　以下のようなことを決めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・ヨーロッパの戦争に参加しないという方針を変えて、参加する</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・ドイツ、イタリア、ソ連との関係を強化する</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・積極的に南方に行くこと（南進）の方針が決まった</p>
<p>　　　　※南進の政策には、いくつかの大きな狙いがあった</p>
<p>　　　　　・援蒋ルートを遮断して、停滞していた当時の戦争の状況を動かす</p>
<p>　　　　　・ドイツに従うことになったヨーロッパの植民地を、</p>
<p>　　　　　　ドイツだけでなく日本も一緒に支配できるようにする</p>
<p>　　　　　　→当時のドイツの植民地は、オランダ領東インド（現在のインドネシア）、</p>
<p>　　　　　　　フランス領インドシナ（現在のベトナム、ラオス、カンボジア）などだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→このようにして、１９４０年の９月に、日本軍はフランス領インドシナに行って、</p>
<p>　　　移動とほぼ同じタイミングで日独伊三国同盟を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※日独伊三国同盟の内容について</p>
<p>　　　　・ヨーロッパとアジアの「新秩序」として、上に立って指導をする地位であることを</p>
<p>　　　　　３つの国がお互いに認める</p>
<p>　　　　・日本、ドイツ、イタリア以外の国から攻撃された時は、お互いに援助し合う</p>
<p>　　　　・ソ連に関しては、除外の規定を作る</p>
<p>　　　　・アメリカを仮に敵国であると想定する軍事同盟だった</p>
<p>　　　　・そのため、この同盟はアメリカから強く反発された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日独伊三国同盟の前後で、アメリカは航空機用のガソリンやくず鉄などを</p>
<p>　　日本に輸出することを禁止する政策を取った</p>
<p>　　→ここからアメリカは、日本への経済的な政策を本格的に行うようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、新体制運動は１９４０年１０月に大政翼賛会という組織が</p>
<p>　　作られるまでの運動になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※大政翼賛会について</p>
<p>　　　・大政翼賛会は、最初目指していた政党のような組織でなくなった</p>
<p>　　　　→その代わり、トップを総理大臣、支部長を道県知事、町内会と部落会と隣組を</p>
<p>　　　　　下部組織とする官製で上の人達の命令を下に伝えるという組織になった</p>
<p>　　　　　※この後、大日本産業報国会、大日本婦人会、大日本翼賛壮年団などの</p>
<p>　　　　　　様々な団体を大政翼賛会の支配下に置いて、戦争の時にスムーズに</p>
<p>　　　　　　国民を動かすことができるようにした</p>
<p>　　　　　※大政翼賛会で一番下の位として置かれた隣組は、回覧板での情報の伝達や</p>
<p>　　　　　　配給などの雑務を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育の分野で、１９４１年に小学校が国民学校に変わった</p>
<p>　　→その時に、「忠君愛国」という国家主義のような教育を行わせていた</p>
<p>　　　※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朝鮮や台湾で、日本語教育を徹底するなどの「皇民化」政策が取られた</p>
<p>　　※皇民化政策・・他の国の人を日本人のように扱って、日本が他の国の人を</p>
<p>　　　　　　　　　　コントロールするための政策のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そのため、朝鮮では創氏改名が強制的に行われた</p>
<p>　　　※創氏改名・・名字と名前を日本風に変えさせる政策のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・新体制運動について押さえる</p>
<p>・三国同盟について押さえる</p>
<p>・新体制運動と三国同盟のその後を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1311">新体制運動と三国同盟について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>明治時代の教育と科学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1278</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1278#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 03:23:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[不敬事件]]></category>
		<category><![CDATA[九帝大]]></category>
		<category><![CDATA[国定教科書]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[学校令]]></category>
		<category><![CDATA[忠君愛国]]></category>
		<category><![CDATA[教育令]]></category>
		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[東京大学]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代の教育と科学について考えてみます &#160; &#160; ・明治時代の教育について &#160; &#160; 　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が 　　行われるようになった  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代の教育と科学について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の教育について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が</p>
<p>　　行われるようになった</p>
<p>　　→その結果、義務教育によって学校に行くようになる率が高まっていった</p>
<p>　　　※しかし、学制は地方の状況を無視して全員に強制かつ同じように扱われたため、</p>
<p>　　　　政府の中からも外からも批判された</p>
<p>　　　　＝そのため、１８７９年に学制が無くなり、教育令という法律が</p>
<p>　　　　　出されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育令では、全国画一だった学区制という制度を無くした</p>
<p>　　→その時に、町村を小学校の設置の単位にした</p>
<p>　　　※小学校の管理は地方に任せ、学校に行く義務は大幅に緩くなった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※しかし、今まで強制されていたのに突然放任に変えたため、</p>
<p>　　　　大きな混乱の状態になってしまった</p>
<p>　　　　→そのため、教育令が出た次の年に内容が変えられ、</p>
<p>　　　　　小学校教育で政府が監督することが強調された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→上のような流れを受けて、１８８６年に、森有礼文部大臣によって、</p>
<p>　　学校令というものが出された</p>
<p>　　＝学校を、小学校、中学校、師範学校、帝国大学などの学校に通う</p>
<p>　　　というような仕組みを作った</p>
<p>　　＝さらに、尋常小学校と高等小学校のそれぞれの４年のうち、</p>
<p>　　　尋常小学校の３～４年を義務教育にした</p>
<p>　　　※その後、１９０７年に義務教育が６年間に延ばされた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※学校令について</p>
<p>　　　　・小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令などをまとめて学校令という</p>
<p>　　　　・小学校、中学校、師範学校は、それぞれ尋問・高等の２種類に分けられた</p>
<p>　　　　　→その中で、尋問中学校が中学校、高等中学校が高等学校に名前を変えた</p>
<p>　　　　・唯一の官立大学であった東京大学は、帝国大学に組み替えられた</p>
<p>　　　　　→帝国大学は、１８９７年に東京帝国大学に名前が変わった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※１８９２年の時は、学校に行く率が男子は７０％、女子は３６％だった</p>
<p>　　　　→その後、１９００年に義務教育の期間の授業料が無料になったため、</p>
<p>　　　　　学校に行く率が１９０２年に９０％を超えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治時代の教育では、様々な制度が作られている裏で、</p>
<p>　　国家主義を重視する教育政策を採用する方向に向かっていった</p>
<p>　　→そこで、１８９０年に出された教育に関する勅語（教育勅語）というものを出して、</p>
<p>　　　忠君愛国の考え方が学校教育の根本であることが強調された</p>
<p>　　　※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※忠君愛国について、１８９１年に、キリスト教徒の内村鑑三という人が、</p>
<p>　　　　自分が講師だった第一高等中学校での教育勅語奉読式という式の時に、</p>
<p>　　　　教育勅語への拝礼を拒否したため、内村鑑三が責められるという事件が起きた</p>
<p>　　　　＝この出来事を不敬事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９０３年に小学校の教科書で国定教科書を使うことが決められ、</p>
<p>　　教育を国家がコントロールする動きが強まった</p>
<p>　　※国定教科書・・文部省が作った教科書のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・官立の高等教育機関が作られるようになっていった</p>
<p>　　→東京大学に加えて、１８９７年に京都帝国大学、</p>
<p>　　　その後に東北や九州などのそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　※結果的に、大正から昭和初期の間に、北海道、京城（朝鮮）、台北（台湾）</p>
<p>　　　　名古屋、大坂にそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　　＝これらの帝国大学を、「９帝大」という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・民間では、大隈重信が作った東京専門学校（現在の早稲田大学）などの</p>
<p>　　私立学校が作られていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の科学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治の初めに、欧米から多くの専門的な学者を呼んできたことで、</p>
<p>　　近代的な学問の研究が本格的に始まった</p>
<p>　　→その後、日本人の学者が自分達でそれぞれの分野の専門的な研究や教育が</p>
<p>　　　行われるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・経済学の分野では、最初にイギリスの経済学が入ってきて、</p>
<p>　　その後にドイツの考え方が中心になった</p>
<p>　　※イギリス経済学・・自由放任にする経済政策や自由貿易などを主張する経済学</p>
<p>　　　ドイツ経済学・・保護貿易や社会政策の推進などを主張する経済学</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・法律学の分野では、最初にフランスから来たボアソナードという人が</p>
<p>　　法典の編纂をしたことで始まった</p>
<p>　　→しかし、その後に起きた民法典論争がきっかけで、ドイツの法律学が中心になった</p>
<p>　　　※そのため、哲学の分野でもドイツ観念論という考え方を中心とした</p>
<p>　　　　ドイツの哲学が中心になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自然科学の分野では、富国強兵や殖産興業などのための政策を行うために、</p>
<p>　　欧米の近代的な科学技術を日本に取り入れるようになった</p>
<p>　　→さらに、外国人の指導者の指導もあって、日本は世界レベルの研究結果も</p>
<p>　　　発表されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・日本史と日本文学の分野では、西洋の研究の方法が取り入れられた</p>
<p>　　→そのため、日本史や日本文学などで科学的な研究が始まり、</p>
<p>　　　今までの国学者の研究が新しくなった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　※日本史の分野では、田口卯吉という人の「日本開化小史」というものを</p>
<p>　　　代表とした文明史論が出てきた</p>
<p>　　　→この考え方によって、当時の歴史の見方が変わったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※東京帝国大学では、史料編纂掛というところが「大日本史料」や</p>
<p>　　　「大日本古文書」など、基本的な資料を編纂する事業が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時の科学的な研究は、日本に昔からある伝統的な考え方とぶつかることがあった</p>
<p>　　　→１８９１年には、帝国大学の教授だった久米邦武という人が、</p>
<p>　　　　神道は宗教ではないという考えによって「神道は祭天の古俗」と論じたため、</p>
<p>　　　　国粋主義者などに責められるという事件が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明治時代の教育について押さえる</p>
<p>・明治時代の科学について様々な分野を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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