新体制運動と三国同盟について
新体制運動と三国同盟について考えてみます
・新体制運動と三国同盟について
・1940年6月に、近衛文麿は枢密院の議長を降りて、新体制運動という運動の
トップに立った
※新体制運動とは・・
→ナチ党やファシスト党を見習い、力のある組織を中心にして大きな政党を一つ作り
今までの政党政治を壊して一つの政党が指導することで、
全ての国民を戦争に協力させるという「革新」運動のこと
・立憲政友会、立憲民政党、社会大衆党などの様々な政党や団体が積極的に、
または仕方なく解散して新体制運動への参加を決めた
※この時に、軍部が近衛文麿が首相になることを期待していた
→そのため、米内光政内閣を終了させた
・1940年7月に第2次近衛文麿内閣が誕生した
→第2次近衛文麿内閣は内閣を誕生させた時に、
近衛文麿、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣で話し合いをして、
以下のようなことを決めた
・ヨーロッパの戦争に参加しないという方針を変えて、参加する
・ドイツ、イタリア、ソ連との関係を強化する
・積極的に南方に行くこと(南進)の方針が決まった
※南進の政策には、いくつかの大きな狙いがあった
・援蒋ルートを遮断して、停滞していた当時の戦争の状況を動かす
・ドイツに従うことになったヨーロッパの植民地を、
ドイツだけでなく日本も一緒に支配できるようにする
→当時のドイツの植民地は、オランダ領東インド(現在のインドネシア)、
フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)などだった
→このようにして、1940年の9月に、日本軍はフランス領インドシナに行って、
移動とほぼ同じタイミングで日独伊三国同盟を結んだ
※日独伊三国同盟の内容について
・ヨーロッパとアジアの「新秩序」として、上に立って指導をする地位であることを
3つの国がお互いに認める
・日本、ドイツ、イタリア以外の国から攻撃された時は、お互いに援助し合う
・ソ連に関しては、除外の規定を作る
・アメリカを仮に敵国であると想定する軍事同盟だった
・そのため、この同盟はアメリカから強く反発された
・日独伊三国同盟の前後で、アメリカは航空機用のガソリンやくず鉄などを
日本に輸出することを禁止する政策を取った
→ここからアメリカは、日本への経済的な政策を本格的に行うようになっていった
・一方で、新体制運動は1940年10月に大政翼賛会という組織が
作られるまでの運動になった
※大政翼賛会について
・大政翼賛会は、最初目指していた政党のような組織でなくなった
→その代わり、トップを総理大臣、支部長を道県知事、町内会と部落会と隣組を
下部組織とする官製で上の人達の命令を下に伝えるという組織になった
※この後、大日本産業報国会、大日本婦人会、大日本翼賛壮年団などの
様々な団体を大政翼賛会の支配下に置いて、戦争の時にスムーズに
国民を動かすことができるようにした
※大政翼賛会で一番下の位として置かれた隣組は、回覧板での情報の伝達や
配給などの雑務を行った
・教育の分野で、1941年に小学校が国民学校に変わった
→その時に、「忠君愛国」という国家主義のような教育を行わせていた
※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと
・朝鮮や台湾で、日本語教育を徹底するなどの「皇民化」政策が取られた
※皇民化政策・・他の国の人を日本人のように扱って、日本が他の国の人を
コントロールするための政策のこと
→そのため、朝鮮では創氏改名が強制的に行われた
※創氏改名・・名字と名前を日本風に変えさせる政策のこと
ポイント
・新体制運動について押さえる
・三国同盟について押さえる
・新体制運動と三国同盟のその後を押さえる
このあたりが今回のポイントです