明治時代の教育と科学について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 12:23      
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明治時代の教育と科学について考えてみます

 

 

・明治時代の教育について

 

 

 ・1872年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が

  行われるようになった

  →その結果、義務教育によって学校に行くようになる率が高まっていった

   ※しかし、学制は地方の状況を無視して全員に強制かつ同じように扱われたため、

    政府の中からも外からも批判された

    =そのため、1879年に学制が無くなり、教育令という法律が

     出されるようになった

 

 

 ・教育令では、全国画一だった学区制という制度を無くした

  →その時に、町村を小学校の設置の単位にした

   ※小学校の管理は地方に任せ、学校に行く義務は大幅に緩くなった

    

   ※しかし、今まで強制されていたのに突然放任に変えたため、

    大きな混乱の状態になってしまった

    →そのため、教育令が出た次の年に内容が変えられ、

     小学校教育で政府が監督することが強調された

 

 

 →上のような流れを受けて、1886年に、森有礼文部大臣によって、

  学校令というものが出された

  =学校を、小学校、中学校、師範学校、帝国大学などの学校に通う

   というような仕組みを作った

  =さらに、尋常小学校と高等小学校のそれぞれの4年のうち、

   尋常小学校の3~4年を義務教育にした

   ※その後、1907年に義務教育が6年間に延ばされた

 

   ※学校令について

    ・小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令などをまとめて学校令という

    ・小学校、中学校、師範学校は、それぞれ尋問・高等の2種類に分けられた

     →その中で、尋問中学校が中学校、高等中学校が高等学校に名前を変えた

    ・唯一の官立大学であった東京大学は、帝国大学に組み替えられた

     →帝国大学は、1897年に東京帝国大学に名前が変わった

    

   ※1892年の時は、学校に行く率が男子は70%、女子は36%だった

    →その後、1900年に義務教育の期間の授業料が無料になったため、

     学校に行く率が1902年に90%を超えた

 

 

 

 ・明治時代の教育では、様々な制度が作られている裏で、

  国家主義を重視する教育政策を採用する方向に向かっていった

  →そこで、1890年に出された教育に関する勅語(教育勅語)というものを出して、

   忠君愛国の考え方が学校教育の根本であることが強調された

   ※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと

 

   ※忠君愛国について、1891年に、キリスト教徒の内村鑑三という人が、

    自分が講師だった第一高等中学校での教育勅語奉読式という式の時に、

    教育勅語への拝礼を拒否したため、内村鑑三が責められるという事件が起きた

    =この出来事を不敬事件という

 

 

 ・1903年に小学校の教科書で国定教科書を使うことが決められ、

  教育を国家がコントロールする動きが強まった

  ※国定教科書・・文部省が作った教科書のこと

 

 

 ・官立の高等教育機関が作られるようになっていった

  →東京大学に加えて、1897年に京都帝国大学、

   その後に東北や九州などのそれぞれの帝国大学が作られていった

   ※結果的に、大正から昭和初期の間に、北海道、京城(朝鮮)、台北(台湾)

    名古屋、大坂にそれぞれの帝国大学が作られていった

    =これらの帝国大学を、「9帝大」という

 

 

 ・民間では、大隈重信が作った東京専門学校(現在の早稲田大学)などの

  私立学校が作られていった

 

 

 

 

 

・明治時代の科学について

 

 

 ・明治の初めに、欧米から多くの専門的な学者を呼んできたことで、

  近代的な学問の研究が本格的に始まった

  →その後、日本人の学者が自分達でそれぞれの分野の専門的な研究や教育が

   行われるようになっていった

 

 

 

 ・経済学の分野では、最初にイギリスの経済学が入ってきて、

  その後にドイツの考え方が中心になった

  ※イギリス経済学・・自由放任にする経済政策や自由貿易などを主張する経済学

   ドイツ経済学・・保護貿易や社会政策の推進などを主張する経済学

 

 

 

 ・法律学の分野では、最初にフランスから来たボアソナードという人が

  法典の編纂をしたことで始まった

  →しかし、その後に起きた民法典論争がきっかけで、ドイツの法律学が中心になった

   ※そのため、哲学の分野でもドイツ観念論という考え方を中心とした

    ドイツの哲学が中心になった

 

 

 

 ・自然科学の分野では、富国強兵や殖産興業などのための政策を行うために、

  欧米の近代的な科学技術を日本に取り入れるようになった

  →さらに、外国人の指導者の指導もあって、日本は世界レベルの研究結果も

   発表されるようになった

 

 

 

 ・日本史と日本文学の分野では、西洋の研究の方法が取り入れられた

  →そのため、日本史や日本文学などで科学的な研究が始まり、

   今までの国学者の研究が新しくなった

   

  ※日本史の分野では、田口卯吉という人の「日本開化小史」というものを

   代表とした文明史論が出てきた

   →この考え方によって、当時の歴史の見方が変わったと言われている

 

  ※東京帝国大学では、史料編纂掛というところが「大日本史料」や

   「大日本古文書」など、基本的な資料を編纂する事業が行われた

 

  ※当時の科学的な研究は、日本に昔からある伝統的な考え方とぶつかることがあった

   →1891年には、帝国大学の教授だった久米邦武という人が、

    神道は宗教ではないという考えによって「神道は祭天の古俗」と論じたため、

    国粋主義者などに責められるという事件が起きた

 

 

ポイント

・明治時代の教育について押さえる

・明治時代の科学について様々な分野を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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