自由民権運動について②
自由民権運動を前半と後半に分けて(今回は後半部分を)考えてみます
・自由民権運動について
・1879年の終わりに行われた愛国社第3回大会の時に話し合いが行われて、
1880年の第4回の時に愛国社を国会期成同盟という名前に変えた
・国会期成同盟に参加したそれぞれの政社の代表が署名した天皇宛ての
国会開設請願書という願書を太政官や元老院に出そうとした
→政府は、国会開設請願書を認めないと同時に、4月に集会条例という条例を決めて、
政社の活動を制限した
※集会条例・・自由民権運動を抑えるために、集会や結社の自由を抑える条例のこと
政社・・民権運動の政治団体のこと
・国会期成同盟は、1880年11月に第2回大会を東京で開いた
→しかし、国会期成同盟での自由民権運動の方針が決まらなかった
=そのため、1881年10月にそれぞれが憲法の原案を持って集まることだけを
決めて終了してしまった
※終了した後に、一部の人達は集まって、自由主義政党を作ることを
決めている人達もいた
・自由主義政党を作ることを決めていた人達によって、1881年に10月に、板垣退助を
トップに置いた自由党という党が作られた
・1878年に政府の最高実力者だった内務卿の大久保利通という人が暗殺される
という出来事が起きた
→大久保利通の暗殺後は、力のある指導者が存在せず、まとめる人がいなかったので、
政府の中で内紛が起きた
※大隈重信という人が、イギリスのような議院内閣制を日本にも早く取り入れるべき
だと考えて岩倉具視や伊藤博文と対立した
・政府が内紛でもめている時に、開拓使官有物払下げ事件という事件が起きた
→この事件によって、世論の政府に対する攻撃が激しくなった
※開拓使官有物払下げ事件・・開拓使の長官だった黒田清隆という人が、
開拓使の官有物を五代友厚という人などが関係する
関西貿易社に異常に安い価格で払い下げようとした
事件のこと
・1881年の10月に、以下のようなことが起きた
・世論が政府を批判する状況を、大隈重信が作ったということで、
大隈重信が政府をクビになった
・欽定憲法の基本的な方針を決めた
※欽定憲法・・天皇が決める憲法のこと
→反対に、国民の意見によって作られる憲法を、民定憲法という
・国会開設の勅諭(天皇が自分で国会の開設を決めた)が出た
※その時に、1890年までんび国会を開設することが決められた
=1881年に起きた以上のような出来事をまとめて、明治十四年の政変という
→明治十四年の政変によって、伊藤博文を中心とした薩長の藩閥政権が出来て、
立憲君主制(天皇が仕切るが、どう仕切るかは憲法に従うという体制)に
向けて準備が始まった
・民間で、以下のような様々な憲法の原案が作られた
→・交詢社という政社が「私擬憲法案」という憲法案を作った
・植木枝盛という人が「東洋大日本国国憲按」という憲法案を作った
※植木枝盛の憲法案は、立志社が作った「日本憲法見込案」という
憲法案と系統が似ていた
・東京近くの農村青年のグループが五日市憲法草案という憲法案を作った
・自由民権については、以下のようなものも含めて多くの議論が行われた
→・中江兆民という人がルソーの「社会契約論」の一部を訳した
「民約訳解」という本を出した
・加藤弘之という人が、「人権新説」という本で、民権派の天賦人権説を批判した
・馬場辰猪という人が「天賦人権論」を、植木枝盛が「天賦人権弁」という本を
書いて加藤弘之に反論した
・1882年に、大隈重信をトップに置いてイギリスの議院内閣制を推奨する、
立憲改進党という党が作られた
→立憲改進党は、フランスのような自由主義を推奨して立志社や愛国社と
系統が似ているという自由党と対立した
※自由党は農村の人々に支持され、立憲改進党は知識人や都市にいる
実業家などに支持された
・自由党や立憲改新党などの動きに対して、政府側が福地源一郎という人を
トップに置いて立憲帝政党という保守的な党を作った
※しかし、立憲帝政党は民権派に対抗できるほどの力はなかった
→そのため、1883年に立憲帝政党は無くなってしまった
ポイント
・自由民権運動の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです